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固有名詞の発音

 投稿者:YURA  投稿日:2016年10月13日(木)14時13分58秒
    先日読んだある随筆集のなかに、もっともだとうなずかせる掲題の一章があったので、以下に記してみます。なお著者は中国籍かと思われる張美玉(ちょうびぎょく)という亜細亜大学助教授とのこと。

  外国人が日本語を学ぶ際に、例外なく「固有名詞の発音」という難関にぶつかる。
  いやいや、外国人に限らず日本人同士の場合にだって、振り仮名を書いてもらわないと、相手の名前を正しく発音できないことが結構ある。要するに日本において固有名詞の発音はそれほど「個性的」なのである。

  服部〈はっとり〉、長谷川(はせがわ)など、訓読みでも音読みでも通用しない苗字を覚えるのは、留学生時代の私にとって骨が折れることだったし、同字異音の苗字にも滅法弱かった。「こうの」と「かわの」の両河野さん、「かみむら」と「うえむら」の両上村先生を迷わなく呼びかけるのに、随分時間がかかったとの気がする。そのうえ早とちりの習性をもつ筆者にとって「珍」苗字も一つの悩みの種だった。来日して間もない頃、初対面の御手洗先生を「おてあらい先生」と呼んでしまった苦い経験がある。そんな恥ずかしい一瞬がいまだ鮮やかに思い出される。

  一方地名の発音の難しさは人名のそれに勝るとも劣らない。
  もう十数年前になるが、東京の地下鉄の小さなある駅の切符自動販売機が故障し、直接駅員から切符を買う羽目になった。私は「しんやちょう」といっても「かみたにまち」とあらためて発音しても、一向に切符を売ってもらえなかった。暫く思案した末に、駅員がようやく悟って「神谷町(かみやちょう)」ですね」と。

  さらに話を外国の固有名詞に進ませると、事情は一層複雑になる。
  漢字を用いていない国の固有名詞につぃては、その国の発音どうりの片仮名が使われている。しかし同じく漢字を用いる国に対しては、固有名詞の発音に一貫した処理がまだ施されていないというのが現状なのである。中国系の地名・人名の発音にはかなりの混乱が存在しているのだ。
  北京(ぺきん)、上海(しゃんはい)、台北(たいぺい)など母国語読みがあるかと思えば、広州(こうしゅう)、四川(しせん)などの音読みもある。

  勤務先の大学には「張」という苗字を持つ留学生が大勢いる。そして、音読みの「ちょう」の他に、「チャン」(中国語)、「ザン」(韓国語)、「チョン」(広東語)などと名乗る学生も少なくない。

  時々面白い宛名の郵便物が来る。先日「ハリヨシタマサマ」というユニークな宛名の小包を受け取った。なるほど「張美玉」(はりよしたま)という読み方も中々乙なものだ。

余談:私らの囲碁の仲間に許斐という人がいますが、読めたらよほどの物知りと思います。コノミと読むのですが、私は一発で読めました。というのは、前回の東京オリンピックの時、ピストルの選手として出場していて、なんでも当時「東京温泉」の社長だったと新聞の記事で読んだ憶えがあったからです。
 

ミモザの会定演を讃えて

 投稿者:ヘ音記号  投稿日:2016年10月10日(月)14時38分51秒
  グリーグからジブリまで、多彩なプログラムをこなした演奏会でした。みなさん、がんばりましたね。女声コーラスの明るさとしっとり感を堪能しました。ススキの穂が秋風になびくようでした。聴きながらうとうとするかと思ったら皆さんの声に引き込まれ、最後まで聴き通しました。

原語で歌いこなしたグリーグの4曲に先ずは感心。意味も分からずに聴いたのですが、なかなか雰囲気がありました。まど・みちお、新実徳英の曲は、何かわけのあるような、また、ないような不思議な感じの曲でした。なかでも、3拍子で歌われた4曲目と、続く5曲目は面白く聞きました。

休憩後の後半は3人のソプラノソロと室内オーケストラ入りで、ハイドンの珍しいミサ曲からでした。ハイドンといっても、弟ヨハン・ミヒャエルの方ですが、ホルン入りのこの曲はCDも出ていないそうです。従ってオケの方たちも弾いたことがなかったとか。そのわりには歌いやすそうで、コーラスはよくハモっていました。それに3人のソロも聴きごたえがありました。

スタジオジブリの5曲は、大人向けとして選ばれたそうですが、私の知っていたのは「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」のみでした。バックに映像も映され、特別出演のリコーダーとホルンの音がとても味のある演奏でした。ここでも、みなさんの楽しみながら歌う様子が感じられました。お疲れさまでした。次回の演奏が楽しみです。
 

鎌倉市歌制定のいきさつ

 投稿者:肖像君  投稿日:2016年10月 5日(水)12時55分5秒
  10月3日、市民合唱祭では、むじかは鎌倉市歌を歌う事になっています。私の手元には、、昭和51年10月1日発行の「かまくら文化だより」という印刷物があります。その中に「鎌倉市歌制定のいきさつ」という記事がありますので、ご参考までに、ご紹介させていただきます。昭和33年9月磯部市長は、現職のまま死去され、代わって山本氏が市長に就任された。たまたま、翌34年11月3日は、市制施行20周年に相当していたので、就任早々の山本市長の構想のもと、記念行事実行委員会が発足した。この行事の一つとして「市歌」と「市民の歌」を作ることになった。まず、作詞者の選定については、市歌は特定の著名人に、市民の歌は一般公募とし、作曲は、鎌倉音楽クラブに人選をお願いすることとなった。
市歌の作詞者の第一候補者は、堀口大学氏、第二候補者は大木淳夫氏であった。堀口氏の承諾は得られなかったが、大木氏は即座に快諾され、一週間後に、秀作と思われる作品を受け取る事となった。作曲は音楽クラブの会員であった矢代秋雄氏が 市歌を、市民の歌を八州秀章氏が担当することとなった。作曲ができあがって試聴会が開かれた。音楽クラブ員、約20名程度、山本市長も出席され、大変満足の意を表された。
 

歌のサロンを更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年10月 3日(月)20時11分13秒
編集済
  9月歌のサロンを更新しました。

出演された皆さまです。
ココをクリックしてご覧ください。




 

女王陛下にキスされた話

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 9月26日(月)13時20分25秒
   以前にもご紹介したが、学徒出陣で海軍に入隊、戦後作家に転じた阿川弘之の随筆集の中に掲題の一章があり、一寸した興味を覚えたのでその要点のみ以下に記します。

  海上自衛隊の今年度〈平成15年頃?筆者注〉の練習艦隊が5カ月間にわたる世界一周の遠洋航海を終えて、9月8日日本へ帰って来た。旗艦が「かしま」、随伴艦が「ゆうぎり」であった。「かしま」は今年ニューヨークで女王陛下にキスされるという歴史的小事件を起こしており以下その詳細を述べてみたい。

  7月5日早朝、マンハッタン西岸ハドソン川沿いのピア〈岸壁〉に係留中の「かしま」の横へ、英国の7万トンの豪華客船「QE2」(クインエリザベス2世号)が入港してきた。その朝ハドソン川は2ノット半の急流があって、流れに押された巨大な客船はあれよあれよという間もなく、右舷側部を「かしま」の艦首部分へこすりつけた。ぐぐっと強い衝撃が艦内を走り、鉄パイプが折れ塗装も剥げ落ちる被害があったが、双方怪我人は出さずに済んだ。

  隣のピアへ接岸後、「QE2」の機関長と一等航海士が船長のメッセージを持って「かしま」へ謝りに来た。応対に出たのは練習艦隊司令官吉川栄治海将補と「かしま」艦長上田恵一等海佐の二人。

  「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。エリザベス女王陛下にキスされて光栄です」。

  相手の詫び言に対し、上田艦長がそう答えた。これが大評判になった。日本では「ヨミウリ・ウイウリー」が大々的に取り上げたし、ロンドンでも「タイムズ」などが、小さいながら記事にした。現地のニューヨークにおいては無論のこと、日本のネイバル・オフィサーのユーモアのセンスを評価する声が高かったという。普通ならニュースにもならぬ小事故で、「かしま」は大使5人分ぐらいの国威発揚をしたとの讃辞もあったそうだが、「サイレント・ネイビー」(沈黙の海軍)の伝統と良き時代の帝国海軍の、「ユーモアを解せざる者は海軍士官の資格なし」の心構えとは、海上自衛隊の戦後生まれのオフィサーたちにも、きちんと受け継がれているもののようである。

  」
 

品の良い演奏を・・

 投稿者:ぴろりん  投稿日:2016年 9月24日(土)23時50分58秒
  ムジカの練習でこの頃よく使われる言葉【上品な演奏】
この言葉が使われる発端になったのは
第52回鎌倉合唱連盟の定期演奏会での総評。

鎌倉合唱連盟では毎回の定期演奏会の折、
講師の先生から各合唱団への講評とは別に
演奏会の最後に総評をお聞き出来るようになっています。

今年の講師の先生は桑原妙子先生と中村義春先生でした。
うろ覚えなのですが・・&遅ればせながら・・
当日、会場でのお手伝いで聞けなかった方や用事があっていらっしゃれなかった方にも
お二人の先生からの総評をお伝えしたいと思います。

桑原妙子先生
  鎌倉には素晴らしい指揮者の方がたくさんいらっしゃる。
  他の合唱団の演奏を聞くことは有意義です。
  一緒に歌える幸せを満喫しました。

中村義春先生
  楽しければ何でも良いという風潮の中、
  それぞれの目標に向かって楽しんでいる。
  それでいて
  鎌倉の人たちが持っている教養の深さに恵まれ、
  どの合唱団も品が良い演奏だった。

昨日のムジカの練習の時、ゆり先生からもチラッと総評のご紹介がありましたし
望先生も上品な演奏に触れていらっしゃいましたので・・そうだ!と思いつきました。

参考までに
9月23日のムジカの練習風景 ← こちらをクリックすると練習のページにリンクします。

次のムジカが出演する演奏会は【白いうた青いうた】ですね。
上品な演奏を目標に上手に頑張りましょう♪ 
 

敗戦の頃を追憶して

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 9月13日(火)21時11分8秒
   既述のように、当時わが部隊は中国の中南部にある州都の長沙の奥にある山地で陣地構築中、昭和20年8月18日〈奥地で伝達が遅れて〉の夕刻突然中隊長から集合を命ぜられ、敗戦を告げられた。

  その宵常連の悪党(?)5-6人が集まり酒宴が催され例の強い地酒を浴びるほど飲んだ揚句、翌朝私の枕元は落花散乱。中隊長からこっぴどく叱責されたのは勿論のこと。

  それから半月ほど経過して降伏式が行はれたが、その場に没収されたわが軍の各種兵器がうず高く積み上げられていた。

  それ以前に部隊本部から命令があり歩兵銃に刻印されている「菊の紋章」(天皇から下賜されたという記し)を削り取れという。戦いに敗れてなお天皇の尊厳にこだわる、なんというバカげたことと嘆くことしきり。ちなみに初年兵時代小銃の手入れが悪く少しでも汚れていると、古兵から「恐れ多くも天皇陛下から賜った銃を汚すとは何事か」と大きなビンタを食らうこと必然。

  その降伏式には敵方の司令官が騎乗して、整列している大隊全員の前を閲兵して廻っていた。なんとその馬はつい先日までわが大隊長が乗っていたものである。一方わが方の大隊長以下全将校は無腰(軍刀を腰に下げていない)の哀れな格好に今更ながら悲哀の感慨を覚えた。

  その後度々中国側から私物検査が行われ、時計とか万年筆など目ぼしいものは残らず没収された。

  また天幕宿営中、刀や鍬など凶器を持った多数の暴漢に襲われ、毛布など盗まれるのを目にしながらも、何ら抵抗する手段もない我々は拱手傍観するほかなかった。

  考えてみると、我々日本軍も戦時中それ以上の悪辣非道の振る舞いに及び、その報いとも思われ隠忍自重するほかなかった。

  かくて中国側からの命令で,道路工事など重労働を課せられる一方、生命維持にかつがつ間に合わせる食糧を支給されることほぼ一年にして、ようやく帰還のための無蓋貨車の旅が始まった。やれやれ。


 

歌のサロンを更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 9月 3日(土)22時30分13秒
  歌のサロンのページを更新しました。
ブラジルでオリンピック開催中…歌のサロンもブラジルで明るく楽しい
歌のサロンでした。

ギター演奏 ボサノバ

鍵盤ハモニカ ピアノで「ブラジルの女」
 2台のピアノのための曲

コントラバス ピアノ ソプラノで「ブラジル風バッハ第5番」
 8台のチェロとソプラノの曲

バリトン ソプラノで愛の妙薬より「二重唱」

次回 9月14日(水) 琴 井関一博さん ピアノ 高須亜紀子」さんです。
      楽しい歌のサロンに気軽にお出掛け下さい。

ここをクリックしてご覧ください。
 

四字熟語

 投稿者:島田直彦  投稿日:2016年 9月 3日(土)11時07分57秒
  四字熟語を英語で言えますか?(守 誠 サンリオ)から。
写真をクリックすると拡大します。
 

鎌倉カーニバル

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 8月28日(日)13時46分5秒
   先日読んだ平成18年刊行の老舗家具店主 今田正広氏の執筆になる「昭和の鎌倉 私の思い出」という本の中に標題の一章があり、興味を覚えたので以下にご紹介します。ただしその内容が大変詳細にわたり長くなっているので、要点のみを抽出してお送りします。

仮装行列はカーニバルのメインイベント

  鎌倉カーニバルは昭和9年(1934)から戦争をはさんで昭和37年まで行われた、鎌倉を代表する夏のイベントである。鎌倉町会議員で作家の久米正雄氏が大仏次郎氏らとともに発案し始められた。久米さん自身が南仏のニースでカーニバルに参加した体験をもとに、ヨーロッパの謝肉祭を模して考えられたとのことである。

  鎌倉カーニバルとそのメーンの仮装行列は同義語として使われているが、実際にはカーニバルは約2週間にわたり行われ、ファッションショーや弓道大会など市内の各所で催された。

  カーニバルの目玉の仮装行列は「ビッグパレード」と呼ばれ最終日の日曜の午後に行われた。当日は東京方面から臨時列車が増便されるなど多くの見物客でごったかえした。

  パレードの一行は鎌倉駅前をスタートし、若宮大路を通って下馬で右折、由比ガ浜、長谷の大道りを直進し、長谷観音前の交差点で海の方へ折れ、突き当たりを左折して稲瀬川の河口から海岸に出るというルートで進んだ。

  このルートは戦前、戦後を通じて変わることなく、見物客でびっしり埋まっていた。当時の新聞によると昭和11年には20万人もの人出があった由。しかし戦前には自動車の数が少なく、若宮大路や由比ガ浜、長谷の県道を規制しても大きな混乱は起こらなかったようだが、戦後になって車の数が増えるにつれ交通渋滞などの支障が起きた結果、カーニバルは打ち切りへとつながった。

趣向を凝らした祭神の数々

  パレードには毎年趣向を凝らした祭神が登場した。なかでも強く印象に残っているのは、昭和11年の祭神「海老に乗るベティさん」である。ベティさんとはベティ・ブープというアメリカ生まれの、大きな瞳がチャーミングな女の子のキャラクターである。祭神は人の背丈ほどある大きなベティさんが、これまた大きな海老にまたがったポーズだった。その他にも様々な祭神が登場している。昭和27年にはその年の3月に亡くなった久米正雄氏を偲んだ祭神が作られた。そして昭和28年から市民の応募で祭神を決めるようになり、話題の人物が並んでいる。〈以下省略〉

追記 Ⅰ このあと「私が出会った鎌倉の名士たち」という一章の中に「家具店と文士のつながり」という副題があり、村松梢風、大内兵衛、那須良輔、小林秀雄、中山義秀、川端康成、などそうそうたる顔ぶれの人達から家具の注文を受けたりする中に生まれた交流が興味深く語られている。

追記 Ⅱ ムジカの団員の中にも、古くから鎌倉に住んでおられ、このカーニバルを目のあたりにした方もおられるのではないかと推測しますが、いかがですか。


 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 8月20日(土)23時52分56秒
  ムジカおさらぎのホームページ「演奏会のお知らせ」に
「第52回鎌倉合唱連盟定期演奏会」の報告を載せました。

ここをクリックして、トップページから「演奏会のお知らせ」をご覧ください。
 

Rio 五輪とブラジル音楽

 投稿者:ヘ音記号  投稿日:2016年 8月16日(火)17時51分46秒
  今まさに、リオ オリンピックの熱戦が展開中。朝から晩までTVの前から離れられない。日本選手の大活躍に声援を送っている。なかでも、水泳、体操、柔道選手の奮闘は称賛される。残る種目の健闘にも期待がかかる。

そんなブラジルの音楽といえば、すぐに思い浮かぶのが、リオのカーニバルで踊られるサンバのリズムであろう。それに、古くから歌われていた民族的な舞曲ともいえるショーロスのメロディーがある。また、ブラジル風なタンゴには、アルゼンチンタンゴにない郷愁を覚える。それらがギターや民族楽器の演奏によって盛んに伝えられてきた。

ついでに、ご紹介したいブラジルの作曲家がある。たぶんご存知の方も多いと思われるが、最も有名な人、ヘイトール ヴィラロボスについて、少し解説したい。Hitor Villa=Lobos(1887.3.5~1959.11.17) はリオデジャネイロ生まれの20世紀前半に活躍した作曲家である。よく知られている作品はブラジル風バッハというタイトルの9曲。題名の通り、バッハの語法をブラジル風に取り入れた組曲である。9曲それぞれに使用楽器は様々で、チェロ7台のものもあれば、ソプラノのアリア入りもあれば、ピアノソロの曲もある。珍しいところでは無伴奏合唱曲もある。このようにヴィラロボスは多彩で、多作の作曲家であった。それに当然ブラジルらしく、ショーロス(民族的舞曲風セレナード) の14曲も重要な作品である。なかでも、10番の曲は、合唱とオーケストラの作品である。

これ以外にも、交響曲12曲。バレエ音楽4曲。協奏曲5曲。弦楽四重奏曲17曲。ピアノ曲やギター曲多数が上げられる。変わったところでは、ハーモニカ協奏曲などまで作られている。

次いで知られている作曲家として、エルネスト ナザレー(1863.3.20~1934.2.4)もあげておきたい。この人はブラジルのショパンと評価された作曲家であり、ピアニストでもあった。したがってピアノ曲がよく知られている。やはりリオデジャネイロ生まれである。オデオン(タンゴブラジレイロ)が有名で、他にもワルツ風な曲を多数作曲している。

以上二人は私の好きな作曲家であるため、少し詳しく書かせてもらいました。オリンピックで活躍している選手たちに免じてお許しください。youtubeの動画を探していたら、ベルリンフィルの野外コンサートで演奏している「ブラジル風バッハ5番」の曲が見つかったので下にURLを記しておきます。
  youtube.com/watch?v=Y1rMJ_ixOFA (7'03")
 

納涼のお誘い

 投稿者:シブスト  投稿日:2016年 8月13日(土)11時23分21秒
  外の撮影は暑いので、涼しさを求めて、新江ノ島水族館に撮影に行きました。童心に返って海の中の素晴らしさに引き込まれました。写真で少しでも涼しさのお裾分けが出来れば幸いです。  

わが思いの深き宿の数々

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 8月12日(金)16時31分43秒
   私の長い半生の中で、内外にわたり重ねた旅ごとに泊まった宿の中から特に印象深いものを抽出し、以下に順を追って述べてみたいと思います。

Ⅰ 三瓶(さんべ)温泉の宿〈島根県〉
  これは古く昭和18年5月、私ら県下の浜田にあった歩兵部隊が中国に派遣される直前のこと。それに備えて最後の演習を行うため、かなり高い三瓶山の頂上で実施すべく、山頂にあった温泉宿に二泊した。連日の猛演習に大汗を流し疲労困憊した後に入った、大きな浴槽に溢れ出る温泉で久方ぶりのゆったりし気分に浸った。そのあとは言わずと知れた山海の珍味に舌皷を打ちながらの、飲めや歌えの大宴会となった。

Ⅱ 霧積(きりずみ)温泉の宿〈群馬県〉
  昭和35年頃、職場の仲間10数名で訪れたが、最寄りの駅から山道を歩くこと3時間余で到達した、当時電気はなくランプの宿。人気絶大の宿で、目一杯予約を受けるため、寝るときは一騒動。まさに「鰮(いわし)の缶詰」状態で、頭と足を互い違いに横になったことが今なお生々しい記憶となっている。

Ⅲ ミラノのホテル〈イタリア〉
  平成7-8年の頃。私の勤務先の会社の輸出係として、ヨーロッパに点在する代理店一巡の出張の中の一つ。折悪しく市中は恒例のファッションショーの時期と重なり、市内のホテルは満杯。やむなく泊まったのが、郊外の正に田園の真っただ中に建つ木造二階建てのホテル。窓のすぐ下には清流が流れ、はるかに水車が廻っているのが望見された。めったに味わえない風情が特に印象に残っている。

Ⅳ コペンハーゲンのホテル(デンマーク)
  これもミラノ同様出張の折の宿。その名もふさわしく「アドミラル〈海軍の提督〉ホテル」といい、港の直近に位置し、そのロビーには船舶の大きな碇など船の備品が飾られていた。付近の掘割には大小様々な帆船が舷々相摩し停泊していた。その昔海賊の民族として名をとどろかせた面影をしのばせた。また近くの海岸には有名なマーメイド〈人魚姫〉の小さな像が岩の上に鎮座していた。その傍らをジョッギングしたのも覚えている。

Ⅴ 三斗小屋温泉の宿〈栃木県〉
  私がリタイヤー後加入した「鎌倉山歩き同好会」の山旅の折泊まった宿。平成10年頃、茶臼山〈那須連山の一つ〉登山の下りのコースから進路を急変、折から真っ盛りの紅葉の山道を歩くことほぼ3時間にして到着した山中の一軒宿。自家発電なるも9時消灯、以後ランプという素朴な宿で、食膳にはヤマメとか山菜など山の物がにぎわしていた。温泉の名の由来は米を牛が運ぶのだが、険しい山道の故一回三斗が限界であるとの、いかにも山の中の温泉にふさわしい名称である。

Ⅵ 乳頭温泉の宿〈秋田県〉
  これも山歩き同好会の催しの一つとして、上記のものと前後して行われた、秋田駒ケ岳登山後宿泊した宿。各種温泉が揃っている中で、最も人気の高いのは、湯煙で向こう岸がかすんで見えないくらい広大な、かつ足下には大きな石がゴロゴロ転がっている。あたりには真紅の紅葉と枯れすすきが風に揺れる、混浴の露天風呂。夜にはランプの光が湯面にきらめく風情はまさに野趣横溢といったところ。一年前から予約満杯との話もむべなるかなである。

番外編 天長城内の兵舎〈中国〉
   上記Ⅰ に記した中国派遣部隊が最初に駐屯したのが,安徽省の天長県の県庁所在地に鎮座する巨大な城壁に囲まれたのが天長であった。その市街地の奥に元県庁々舎と思しき非常に丈高き木造二階建ての建物があり、私は中隊本部の情報係として2階の一室があてがわれた。
  その30メートルは優にあると思われる高き屋上に展望台が設けられ、歩哨が交替で勤務する。遥か城外の田園風景を眺める時、どこに戦争があるのかという平和でのんびりした気分にひたされた。

以上一寸長くなりましたが、思い出すままに申し述べた次第であります。





 

『お笑い』おすそ分け(18才と81才の比較コント集)

 投稿者:島田直彦  投稿日:2016年 8月11日(木)22時57分35秒
  ① 道路を暴走するのが18才、逆走するのが81才。
② 心がもろいのが18才、骨がもろいのが81才。
③ 偏差値が気になるのが18才、血糖値が気になるのが81才。
④ 受験戦争を戦っているのが18才、アメリカと銃後で戦ったのが81才。
⑤ 恋に溺れるのが18才、風呂に溺れるのが81才。
⑥ まだ何も知らないのが18才、もう何も覚えていないのが81才。
⑦ 欲しいものを買ってもらえたのが18才、「欲しがりません勝つまでは」と教えられたのが81才。
⑧ 東京オリンピックに出たいと思うのが18才、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81才。
⑨ 自分探しの旅をしているのが18才、出かけたまま分からなくなって、皆が探しているのが81才。
⑩「嵐」というと松本潤を思い出すのが18才、鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出すのが81才。
⑪ スマホを手放せないのが18才、スマホ難民なのが81才。
⑫ 「就活」に関心があるのが18才、「終活」に関心があるのが81才。
⑬ 夢に向かってチャレンジするのが18才、筋力アップにチャレンジするのが81才。
 

合唱連盟定演の講評

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 8月 1日(月)13時32分13秒
  ムジカおさらぎの演奏について、お二人の先生の講評を掲載します。

1.講評者  桑原妙子先生

 まず オン ステの素晴しさ! よくぞ これだけのメンバーが...と ただ ただ感心するばかり。
 そして そして なんと若々しい歌声、リズム、躍動感 etc.
 今日 ここにいられて この演奏を拝聴できるしあわせに感謝しています。
 特にHun.のフレーズいいですね。
 2曲目は特にその風景が空気となってホールいっぱいに広がり ただ幸福感包まれました。ますますのご発展を!

 4月にみなとみらい大ホールで開催されている国際シニア合唱祭ゴールデンウェブに参加なさいませんか?詳細はHPで。


2.講評者 中村義春先生

 これ程の多人数の人々が心を一つにして歌う姿は素晴らしいですね。日本中がこう在ってほしいと思う姿です。
 多くの人が心を合わせて歌う事自体素晴らしいのにその人々が美しいものに向かう姿に感動を覚えます。
 男も女もなく、唯美しく在りたいと思う一点で心を合わせる事の素晴らしさが聞こえて来る歌でした。
 是非、明日に向かって元気で頑張って下さい。


 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月30日(土)10時21分54秒
  募金のゆくえ を更新しました。
去る、7月15日の募金贈呈式の模様を掲載し、これまでの募金総額が1400万円を超えたことをお伝えしています。

http://musica-osaragi.jp/Bokin-w/index.html

 

我流認知症対策

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 7月28日(木)14時00分36秒
    実は私の身近にもかなり重症の認知症患者がいたので、その怖さを身に染みて知っているだけに、私自身もその対策に大いに意を用いております。

  まず第一に、何らかの形で世間とのつながりを保つこと。例えば趣味の会に加入して仲間と交流をはかること、また町内会、自治会に役員として参加すること、さらにボランティアで内外の団体で活躍するなどが挙げられる。

  また読書を趣味とする、随筆など作文に意を注ぐ、楽器の演奏を楽しむ、友人や家族との会話、映画鑑賞や旅行などから得られる刺激や感動も脳の活性化に大いに役立つともいわれている。

  その他自習法として「音読筆写」といって、一つの文章を声を出しながら読み、それを紙面に書き写す方法。また「数独」というかなりの人が挑戦している好適な方法があるが、私は実行していないので詳細不明。さらに1ページに数10の加減乗除〈足し算、引き算、掛け算、割り算)のごく簡単な数式が羅列されていて、それらをかなり厳しい制限時間内に算出するよう求められている方式もある。

  いずれの方法にしてもそれらを解説、説明する書籍は書店にあふれんばかりに揃っていると推測する。

  以上申し述べた諸対策の中から、各自自分に適したと思われる方法を選択し、認知症予防に努められたらいかがと思う次第であります。

追記:上記文章は私が所属する厚生年金組合に投稿したものです。
 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月27日(水)22時13分47秒
編集済
  歌のサロンのページを更新しました。

7月のゲスト

トロンボーン演奏:佐々木匡史さん、ピアノ演奏:矢島吹渉樹さん

楽しい歌のサロンの様子は、アルバム・スライドショー・動画でご覧になれます。

ココをクリックしてお楽しみください。


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鎌倉のチベット

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 7月15日(金)13時14分47秒
    先頃読んだ、著者は銀行の常務など勤め、定年後趣味が高じて随筆集を出すようになり、その一つが「鎌倉つれづれ」という本で、掲題はその一章である。なお著者は新しい団地ができると同時に鎌倉に移住したという。その内容に興味を覚えたので以下にご紹介します。

  鎌倉に居を構えてからすでに二十数年になる。東京までの通勤は乗り換えなしで行けるし、また自然が残されていて、それなりに気に入っている。しかしこのカマクラという名前がとかく厄介なのである。

  ずいぶん昔のことになるが、ある公団のエライさんに住まいのことを訊かれ、何気なく鎌倉と答えたところ、さらに詳しく尋ねられ、住所を告げた。すると
  「そんなところは軽々しく鎌倉というな。鎌倉とは扇ガ谷や雪ノ下、小町のような昔からの街を言うのだ。今後気を付けたまえ」
  と叱られてしまった。実は彼の実家は旧市内にありそれが自慢である、と後に知った。もっとも彼の言い分も一理ないわけではない。たしかにわが住まいは昭和四十年代に、自然を破壊して造成した新興住宅地であり、そんなところに住みついたやからと一緒にされたくはないだろう。彼らの言う鎌倉は小津安二郎の世界のような、ゆったりとしたたたずまいの、いわゆる古都鎌倉なのである。

  そんなことがあってから、住まいを訊かれるときには、答え方を使い分けている。関東以外の人にはすんなりと鎌倉と答える。それが一番わかりやすいからである。しかし東京や横浜の人で鎌倉を多少なりとも知っていそうな人には用心して答える。
  「JRの大船から少し入ったところです」先方は興味なさそうに「あっ、そう」大抵はそれでおしまいである。たまによりくわしく尋ねられると、古都鎌倉を連想されないように気を使う。一時は「駅から遠い、ずーっと山の中の、鎌倉の岩手県です」
と答えていたが、岩手の人に叱られるとまずいので、最近は
  「鎌倉のチベットです」と答えることにしている。これならあんまり差し障りはなさそうだ。〈以下省略〉

追記:本文から推測するに、著者の住まいはあるいは今泉台団地かとも思われる。もしそうならそれに関連して面白い話を聞いているのでご披露してみます。
  団地完成の暁、地名の決定に住民一同協議の上、団地の位置が北鎌倉の真上の小高い岡にあることから「北鎌倉台」と衆議一決したという。ところがそれを聞いた古くから北鎌倉に住む住民一同が、この本の記事にあるエライさんからお叱りを受けたように「どこから来たか分からない新参者が、この由緒ある北鎌倉を名乗るとは不届き千番」と猛烈な反対運動を展開したため、新団地一同もやむなくそれに屈したという。今でもバス停の一つに「北鎌倉台」というのがあり、僅かに溜飲を下げているやに哀れを催される。

余談:この随筆を読んでいて、面白い符合に気づいた。
  というのは以前読んだ別の随筆家の作品中に全く同じような情景が描写されていたからである。二人とも同じ団地の同じ地域に住んでいて、同じバス停を利用していたようだ。両人揃って東京に勤務していたという。
  その状況というのは、帰途雨に降られて、大船駅前から乗ったバスの中から自宅へ「今白山神社の前を通過中だが、半僧坊下のバス停まで傘を持って来て貰えないんだだろうか」と奥さんに電話したという。


 

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