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わが軍歴 

 投稿者:YURA  投稿日:2017年11月 1日(水)21時10分33秒
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   私が島根県浜田市にあった陸軍歩兵第21連隊に入隊したのは昭和17年10月1日ののことであった。当時は前年に始った太平洋戦争に陸、海軍とも敗勢歴然たる状況であった。私等大学、高専の学生を半年繰り上げ卒業させ、幹部候補生要員として、速成教育を経て、将校、下士官に任命し、一日も早く前線に派遣せんとするものであった。
 私等新兵は早朝から日の暮れるまで猛演習に追いまくられて疲れ果て帰隊するや、「軍人精神注入」の美名のもと、古兵から眼もくらむようなビンタの嵐を浴びせられ、全く生き心地もしなかった。他の兵が幹部合格をめざして懸命に努力する姿を尻目に、上記の敗戦必至の状況を念頭に、私と常松之俊(戦後N響の首席チェリスト)ともう一人加えてひそかに談合、軍務をサボることで一致、望み通り幹部不適格の烙印を押された。
 その結果ほぼ半年後、新編成の歩兵大隊に編入されたが、その要員の大多数が予備役(以前召集され、一度帰還したもの)の30歳代の年配者達の部隊で、第一線の部隊が占領した地点を警備することを主たる任務とする第二線部隊であった。
 最初に駐屯したのは中国中部にある県庁所在地でその任務は付近の治安維持と、周辺に出没する共産軍の討伐で、分遣の小隊が討伐に敗れ、小隊長他2名が戦死する事件があった他はおおむね平穏無事であった。
 およそ一年後の18年6月北部中国に移動。新たな作戦命令による揚子江岸を目指しての行軍が始動した。数日後城壁に立て籠もった敵軍から突如猛烈な銃撃を浴びせられて即座に応戦、激闘数時間の末敵城を占領したが、大隊長以下多数の戦死傷兵がその犠牲となった。それ以後はおおむね無事の裡に目指す漢口に到着した。
 揚子江を渡ってからの行軍が超過酷で,文字通り「死の行軍」となった。7月の猛暑の炎天下、30キロの重装備に喘ぎながら行軍中、食糧などの補給が絶無となった。得意の現地調達も、数次の作戦で満目荒涼たる焼け野原が続くばかり。やむなく数日おきに大休止、10数キロ離れた部落で僅かな籾米(もみごめ)を徴発し辛うじて命をつなぎとめる有様。加えて米軍機の銃爆撃が次第にその度を加え、その犠牲になる兵馬が数知れず。そんな悪戦苦闘を重ねながらほぼ一ヵ月後に目的地に到着したが、極度の栄養失調による戦病死兵が後を絶たなかったのはまことに痛ましい限りであった。
 その後命令により駐屯地を移動する中に、昭和20年8月18日停戦命令が発せられ思わずホットした。ほぼ1年間の抑留生活を経て、21年7月2日鹿児島で約4年にわたる軍隊生活から無事復員した。
 追記:戦後出逢った中国正規軍の服装を見て仰天。米軍支給らしき迷彩服着用、驚いたことに自動小銃を手にしているではないか。それに引き替え、わが陸軍の小銃はなんと明治38年制式のいわゆる「サンパチ」式小銃で、5発装填、単発式の重い小銃。こんな兵器同士で撃ち合ったら、ひとたまりもないと大きな恐怖心にかられた。
 
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