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高橋和巳没後40周年について

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2011年 2月24日(木)16時19分8秒
返信・引用
  人見さん、お元気ですか。

桃の節句・雛祭りも真近く当地では、日に日にあたたかく春のきざしでいっぱいです。昨年末以来の風邪がようやく治りました。本格始動しなければなりませんが、なかなか思うよう発進してくれません。

さて、高橋和巳没後40周年です。出版・編集関連各位に2、3当りましたが、高橋和巳特集なんて現今の厳しい出版状況もあり、まったく夢のまた夢であります。
昨年の三島由紀夫没後40周年の華々しい出版企画とちがい、これがいつわらざる現実なのでしょう。

とまれ、それでも「褐色の憤怒」を以て歩むしかありませんね。
 
 

Re: バッハのチェロか、オルガンだったか。

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2010年12月15日(水)19時51分49秒
返信・引用
  > No.41[元記事へ]

>太田代志朗さん

 ほんとうに早くも歳末、時間は容赦なく過ぎ去るというのが実感です。

> だが、陰々滅々高橋和巳にはオルガンよりもチェロの独奏でなければ似合わない、と。

 オルガンかチェロか……ぼくなら迷わず人間の肉声に近いチェロを選びます。

 そういえばバッハにはしばらくご無沙汰しておりますが、このところ毎日のように
ブラームスのチェロ・ソナタを聴いております。どうもぼくにも陰々滅々たるところ
があるようでして。

 音楽の話といえば、高橋和巳の作品中にクラシック音楽は登場しますでしょうか?
ぼくはあまり読んでいないのですが、どうも記憶にはありません。クラシック音楽と
の関わり、興味がありますね。

 さて褐色の砂塵ですが、少なくとも広小路からは煤けた校舎とともにすっかり始末
されてしまったようです。まぶたを閉じればありありと見えますけれど……
 

バッハのチェロか、オルガンだったか。

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2010年12月15日(水)11時30分23秒
返信・引用
  人見伸行さん、歳末、お元気ですか。
頃日、賀乙彦著『私の宝石』(集英社、19769)を読んでいましたら、青山斎場における高橋和巳の葬儀(1971年5月5日)にはバッハの無伴奏チェロ・ソナタが流れていたということでした。いや、バッハのオルン前奏曲かもしれない。だが、陰々滅々高橋和にはオルガンよりもチェロの独奏でなければ似合わない、と。

あの斎場に流れていたのは果たしてチェロだったのか。それともオルガンだったのか。
いくら記憶を辿っても愚性にはわかりません。

そし来年は高橋和巳没後40周年。「褐色の憤怒」の意味を未だ問い続けています。
人見さん、そしてあなたが指摘するように願わくは「褐色の砂塵」に埋もれ、痛み叫んでゆけばいい。そう思いながら、また一年がたってゆきます。
●無伴奏チェロ・ソナタ わが死せる朝の光の愛(かな)しくあれよ

 

三島由紀夫没後40年ーー第40回憂国忌

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2010年11月23日(火)17時09分24秒
返信・引用
  三島由紀夫没後40周年にていろいろな出版企画が目白押しだ。
高橋和巳も若く三島由紀夫には大きな関心を持っていた。その自死にあたっては鎌倉の家の病床でインタビューを受けた。

今年の第40回追悼会『憂国忌――三島由紀夫を通して日本を考えよう』は11月25日:九段会館大ホール。

私事ながら、思へば編集者上がりの姑息狭量な文藝評論のKが言ったことが今にして忘れられない。「お前さんが三島由紀夫に惹かれるのはともかくそれは危険なことだよ」。それは恫喝ではなかったか。私は一瞬たじろぎ俯いていたのだったがいったい何が「危険」だったのか。もっともその後の”お前さん”とは縁なく会いたくもなく今にいたっているのですがね。
 

Re: 杉本秀太郎氏のこと。

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2010年11月20日(土)23時36分15秒
返信・引用
  > No.38[元記事へ]

>太田代志朗さん

 ぼくは『憂鬱なる党派』の文体には抵抗を感じませんでした。もっとも読後ひどく
気が滅入ったことをいまも忘れはしませんが。

 彼の文章は非常に明晰で、ぼくがもっとも感心したのは『わが解体』です。日本語
の散文としては最高水準のものではないかと思っています(などとえらそうなことを
いう資格のないことは百も承知しておりますが……)。

 文章を追うのは苦にならないけれど、彼の小説はどうも息苦しく、ひまつぶしとし
て気楽に読み流すようなものではないため、読む方にもそれなりの覚悟が必要ですか
ら、本棚から取り出そうとしては手をひっこめる……その繰り返しで、まだ読んでい
ない作品がいくつもあり、ここではほとんど沈黙を守っている次第です。管理人の資
格ゼロですね。
 

杉本秀太郎氏のこと。

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2010年11月20日(土)17時51分39秒
返信・引用
  2010年11月。今年の告知の紅葉は気候の寒暖はげしくいちだんと映えているようだ。そんな折しも、京町屋の杉本家住宅(京都市指定有形文化財)の奥座敷の庭を、名勝に文化審答申の報あり。もともと当家当主だった杉本秀太郎氏(1931~)はフランス文学者にて、かつて高橋和巳の長編『憂鬱なる党派』をして「こんな固い文体の小説なんか読めるか」と満座の中で酷評した。その日、私は誘われながらなぜか「VIKINNG」の読書会に出ていないのだが、仄聞によると業を煮やした高橋和巳はその夜、ひとり深酒に酔いしれ「お前におれが分かってたまるか・・・・」と荒れに荒れた。青山葬儀場で故高橋和巳の弔辞をよんだのがまた杉本秀太郎なのですがね。  

立松和平さんを偲ぶ会に

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2010年 3月28日(日)21時52分54秒
返信・引用
  2010年03月27日、立松和平さんを偲ぶ会(実行委員長・北方謙三)が東京・青山葬儀所でおこなわれる。

白百合や緑の木々に飾られた祭壇、友人有志による実行委員会主催。62歳で逝くにはあまりにもまだ若すぎる。和平さんのにこやかな肖像に思はず涙ぐむ。大導師・福島泰樹上人の法要読経に始まり弔辞に北方謙三、黒井千次、三田誠広、黒古一夫、高橋伴明、辻井喬氏ら。別れを惜しみ謹んで焼香。ファンなど一般参列1000人の長い列が続く。

四ツ谷・市ケ谷のお壕端の3部咲きの花をタクシーから眺め人だかりの神楽坂。酒亭”もー吉”での献杯に間村俊一氏始め月光メンバーの竹下洋一、松岡達宜、渡辺浩史、中田實、織田百合子、高坂明良、それに元ボクサーで日本チャンピオンをノックアウトしたこともある元日本ランカーの本田宏一氏ら。いささか飲み立松和平論、大酩酊の帰路。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

高橋和巳の話題を!

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2009年12月20日(日)16時11分34秒
返信・引用
  『週刊金曜日』(2009年12月4日号)が届けられた。
浅学にしてあまり読んでいない雑誌だが、ここには高橋和巳の写真が掲載されている。これは同誌における高橋和巳論展開につき、わがウエブサイト「花月流伝」の高橋和巳写真を見た編集者から写真掲載使用許可の問合せがあり、承諾したものだった。

私はこれまでもウエブサイト掲載の高橋和巳関連の写真使用については、すべて快諾してきている。写真一つでも掲げることにより、高橋和巳の話題に寄与するものであればいい。そう思っている。

高橋文学には、いまなおゆえしれぬ文壇的規制がかけられ冷笑・拒否・黙殺にあっている。ならば封殺された高橋文学を広く語り、研究し、大きく解き放さうと「高橋和巳研究会」を興し、BBS「高橋和巳を語る会」を開信したのだったのだから。
 

Re: 兵頭正俊「全共闘記」U大バリケード闘争

 投稿者:薄氷堂(管理人)  投稿日:2009年 7月29日(水)21時48分27秒
返信・引用
  > No.34[元記事へ]

>太田代志朗さん

> だが兵頭正俊著『死山』『二十歳』『三月の乾き』など一連の作品は現実のR大全共闘の運動と生活が描かれて興味深い。

 ぼくは当時もっぱら浮世離れした小説ばかり読んでいたものですから、兵頭正俊さ
んというお方は知りませんでした。

 ネット検索したところ、兵頭さんはお元気で、現在ブログを運営しておられますの
で、ぼくもこれから拝見するつもりです。

http://homepage3.nifty.com/hakuhyodo/

 

兵頭正俊「全共闘記」U大バリケード闘争

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2009年 7月25日(土)11時26分59秒
返信・引用
  「安保世代」といふ十羽一括りにされる身には所謂「全共闘文学」について必ずしも理解のある立場ではない。

だが兵頭正俊著『死山』『二十歳』『三月の乾き』など一連の作品は現実のR大全共闘の運動と生活が描かれて興味深い。

京都・広小路学舎や本部バリケード闘争を始め学園新聞社襲撃事件、また末川賞(選者:梅原猛・高橋和巳・真継伸彦)のことや日共スターリニズム支配体制学内権力、その荒廃からの教授陣の大量辞職などあからさまな現実に向ふ「全共闘記」が重くも鮮烈に迫る。
 

幻の「遥かなる美の国」を思う

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2009年 7月 7日(火)16時32分41秒
返信・引用
  柏原成光著『黒衣の面目ーー編集の現場から』(風涛社)の中にある“「人間として」(1970~1972)の時代”の項を読むと、改めて晩年の高橋和巳のことを考えさせられる。

①「人間として」同人の小田実、柴田翔、真継伸彦らと伊豆の合宿(民宿)の折、高橋和巳はいう。題は「遥かなる美の国」。女王の支配する国、その一世の興亡を書きたい。史記の列伝のような方法で。
②「人間として」は高橋和巳が積極的に提案したものだった。しかるに夫人によれば、それは高橋和巳の文学者としての本質部分でないということ。カソリック文学を志向する夫人に当の高橋和巳も共鳴していたというが、そうだったのか。

ーーそして新宿に「悲の器」という文壇バーが果たしてあったのかしら。

http://www.uranus.dti.nejp/~ohta/

 

Re: 爽やかなほほえみを

 投稿者:薄氷堂(管理人)  投稿日:2009年 6月27日(土)22時56分40秒
返信・引用
  > No.31[元記事へ]

> ーー頃日、この『天理時報』編集部から、私のサイト「花月流伝」掲出の高橋和巳の写真の掲載許可願いのメールがあり熟慮、これも「供養」だと思い掲載許可に同意した次第です。写真は若き日、京都・円山公園ーー高橋和巳は爽やかにほほえんでいます。

 太田さんが言及されている写真は、

  花月流伝→高橋和巳序説→高橋和巳との日々(アルバムから)

とたどればごらんいただけます。

 ワンクリックで写真を表示する URL が得られませんでしたので、念のためご案内いた
します。

 太田さんのおっしゃるとおり、たいへん爽やかな笑顔です。ぜひごらんください。

http://homepage3.nifty.com/hakuhyodo/

 

爽やかなほほえみを

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2009年 6月27日(土)16時03分53秒
返信・引用
  山崎国紀氏(花園大学名誉教授)が「母の“祈り”と父の“誇り”」(特別寄稿「近代文学に描かれた天理教」)を『天理時報』(2009年6月13日号)に載せています。
壮絶な闘病生活を送らねばならなかった高橋和巳に、天理教信者のご母堂が「どうぞ神様、お助けを」と必死に祈ります。「宗教は容認してもみずからは信じない」高橋和巳の深層を改めて考えさせられます。
ーー頃日、この『天理時報』編集部から、私のサイト「花月流伝」掲出の高橋和巳の写真の掲載許可願いのメールがあり熟慮、これも「供養」だと思い掲載許可に同意した次第です。写真は若き日、京都・円山公園ーー高橋和巳は爽やかにほほえんでいます。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

今、ふたたびの高橋和巳を

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2009年 6月19日(金)20時54分50秒
返信・引用
  専門の研究論文を始め創作、エッセイなどで活躍の田中寛氏(大東文化大学教授)の「高橋和巳『堕落』にみる理想の悲劇性ーー文学における戦争責任と戦後認識」(「大東文化紀要」平成20年3月発行)は衝撃的な「堕落」論。その深い洞察と慧眼が新たな高橋和巳の世界を展開しています。
ところで私事ながら、目下、新文藝誌「月光」(勉誠出版発行)特集「全共闘と文学」で、「高橋和巳の解体」を執筆中です。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

今なお

 投稿者:堀田 一雄メール  投稿日:2009年 1月30日(金)01時17分11秒
返信・引用
  そうか、高橋和巳が死んでから30数年の歳月が流れたのか・・・

「時が経ってもなお 問いを発するお前たちは 解を内包する行動を取った者だ」

そう信じて 先頭を駆けたお前たちに 命の刻印として 栄誉を

                                堀田
 

古井戸さんへ

 投稿者:御影暢雄メール  投稿日:2009年 1月12日(月)21時41分24秒
返信・引用
  70年代のフォーク・グループで「古井戸」と言うグループがありました。近年の中国映画でも「古井戸」というのがありました。私と同じ、団塊の世代の方のようですね。私は、小林多喜二をこの数年、勉強しているのですが、高橋は多喜二について全く関心を抱いていなかったようですね。一方、多喜二は短編~中編小説しか残っていないのですが、実は長編小説を書こうとしていたそうです。高橋と多喜二の共通項はないように見えて、実はドストエフスキーを二人とも深く読んでいた・・・これが現時点での、私の「概観」です。  

Re: 高橋和巳の想い出

 投稿者:薄氷堂(管理人)  投稿日:2009年 1月12日(月)13時44分17秒
返信・引用
  > No.26[元記事へ]

>古井戸さん

 ご投稿ありがとうございます。

> 最近、鶴見俊輔『悼詞』に、高橋和巳追悼の一文が載っていたので懐かしかった。
> 記事に書いたのでよろしければご覧ください。

 拝読いたしました。

 狩野直喜先生のエピソードについては、立命中文のサイトに掲載されている白川
静博士の『講演 京都の支那學と私』で知りましたが、時代背景を考えますと、た
いへん立派なお話だと感心いたしました。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/shirakwa/kouen128_1.htm

http://homepage3.nifty.com/hakuhyodo/

 

高橋和巳の想い出

 投稿者:古井戸メール  投稿日:2009年 1月12日(月)09時05分29秒
返信・引用
  40年前新潮文庫、悲の器をよみました。高橋和巳をしったのは、その数年前、高校生の頃。朝日ジャーナルを購読していたので、邪宗門で。

最近、鶴見俊輔『悼詞』に、高橋和巳追悼の一文が載っていたので懐かしかった。
記事に書いたのでよろしければご覧ください。
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2009-01-09-1

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/

 

Re: 「高橋和巳の青春とその時代」講想社

 投稿者:薄氷堂(管理人)  投稿日:2009年 1月 4日(日)21時17分4秒
返信・引用
  > No.24[元記事へ]

>御影暢雄さん

 御影さん、2009年最初のご投稿ありがとうございます。

 たいへんマイナーな掲示板ですけれど、火を絶やしたくはありません。

 せめて管理はしっかりつづけるつもりです。みなさまのご投稿がたより
ですので、今年もどうかよろしくお願い申し上げます。

http://homepage3.nifty.com/hakuhyodo/

 

「高橋和巳の青春とその時代」講想社

 投稿者:御影暢雄メール  投稿日:2009年 1月 2日(金)21時44分48秒
返信・引用
  「高橋和美とその時代」(講想社)の中で、三浦浩氏が「その若き日」と題する一文を寄せています。その中から、少し紹介します。

” ・・・1949年の秋、僕は高橋と、京都の大学で会った。長身、白析の青年と言うより、多分に少年の面影を残した美しい青年だった。まだ松江の高等学校のボタンのついた制服を着て、小粋に幾分長い髪を、はらりと白い額に垂らしていた。・・・はじめて、高橋と長い会話を交わしたのは、大学の図書館の、二階の廊下のことである。高橋は、その頃からすでに、悩みを製造し、耽溺しているところがあったと思うが、シフレスの疑いがあるので、606を打ってもらったら熱が出た、これからの人生をどう生きるか、と、そんなことを、たいへん深刻に話したのを覚えている。彼は、その時、18才になったばかりだった。・・・”

 若気の至りで、どこかでうつされた病気が、後々まで苦悩の原因になったことを三浦氏はほのめかしています。
 こうした話を知ると、高橋の小説を違った角度から読みなおしてしまいます。「悲の器」の主人公の心の闇には、若い頃の、おぞましく苦い「ヰタ・セクスアリス」が潜んでいました。主人公は、自分(=高橋)とは全くタイプの違う人間としてではなく、実は彼は自分の分身として、描こうとしていたのではないか、と言う風にです
 

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