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残暑ーーひとこと

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年 8月17日(土)15時25分53秒
返信・引用
  人見伸行さまーー残暑お見舞い申し上げます。
過日はHP、ブログのことなど貴重な示唆を頂戴し、有難く、感謝しております。

ネットのこと、まだ何も分からぬ者ですが、
最近の図書館のデータがソフトの深化でもう読み取れないことなど知るにつけ、
情報・ネット・PCなどますます複雑な環境下で人間は漂流してゆくようですね。

今朝、、掲示板に送信しました。
いつもの誤字、お許しください。
「高橋たか子」さんのこと、
個人的にいろいろありますが、控えておきませう。

あれから、人見さんに「お礼のひとこと」をと思いながら、
そちらのお仕事も順調のご様子にて、欣快の至りです。

残暑・炎暑ーー取り留めもなき夏の日々。
京の大文字焼きも終わり、相変わらずの武州暮らしです。

http://www.uranus.dti.ne.jo/~ohta/

 
 

高橋たか子さんを悼む

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年 8月17日(土)06時28分11秒
返信・引用
  高橋たか子さんが7月12日亡くなった。享年81歳。
私は新聞でその逝去を知った。
葬儀は近親者で行われ、喪主は著作権管理者ということだった。

高橋たか子さんとは個人的にもいろいろあった。
だが遠い人になっていた。その高みが何なのか私には分からなかった。
たか子さんは人間の情やセンチメンタリズムを拒否されていた。

「一言、その人の名誉のために言っておくが、太田代志朗君だけは、利心なく、ひたすら和巳を尊敬する、純朴な文学青年だった」((高橋たか子著「高橋和巳という人――二十五年の後に」河出書房新社)

「純朴な文学青年」とは懼れいるが、ご冥福を祈る。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

再び

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年 5月22日(水)17時06分56秒
返信・引用
  青嵐の5月となった。風香り、木々が緑をうたふ。
犬の散歩でゆく公園の緑林をぶをぶらぶらし深呼吸してみる。
巡る季節に自然の息吹が心身をやわらかくほぐしてくれる。

5月・憂鬱なる党派ーー昨年は高橋和巳没後40年でいくつか小論を書き上げた。
まさに悲哀と解体のパトロジー。富士霊園にゆくことはもうないだらう。
黄昏に邪宗の門潜りゆけばいい。

夕べはよく眠った。マイスリー(睡眠導入剤)も飲まなくなった。
寝床に入ると新聞や本を読み、それも小一時間ほどで眠りに入る。
夢をよく見る。夢に追われる。
なぜか”四億八千の思ひ”がかけめぐる。

 

福島泰樹短歌絶叫コンサート

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年 5月20日(月)15時14分34秒
返信・引用
  寺山修司没後三十年記念:福島泰樹短歌絶叫コンサート
2013年この5月24日(金)、ライブハウス「バディー」(池袋西武線・江古田駅南口)。
「一周忌の霊前に歌集『望郷』」を献じた私は以後毎年命日の五月に追悼コンサートを開催してまいりました」と。

鵺啼くなり男の愁いと下谷の路地を駆け抜け、雪の深夜を彷徨した日々。
内なるデモンとともに”清かなる夜叉”は黒時雨の中を疾駆していったのだった。

 

京の嵐にーー高橋和巳挽歌

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年 5月19日(日)19時03分34秒
返信・引用
  この寒かった2月に体調を崩し、思わぬ不覚をとった。
春の訪れとともに何とかしのぎ、初夏を迎えた。
年々、足腰は確実に弱ってきている。
老いを素直に受け入れることも健康の一つなのだろう。

5月、青嵐に黙然と過ごしている。
ふと思い立って、やすいゆたかの総合サイト「プロメテウス」に「京の嵐にきみはうたはむーー高橋和巳挽歌」30首を掲載した。

これは「季刊月光」(勉誠出版)3号特集「全共闘」(2011年春発行予定)のために書いていたのだが、同誌が2号でやむなく終わり、筐底深く眠っていたものである。
半時代的な、こんな思いつめたものはもう二度とうこともあるまい。

そして、富士霊園には、もう行くことはない。
そう思いながら、5月を無骨に過ごしている。
武州小庵に風が流れ、鬱々茫然の時が刻まれている。
 

今ひとたびの饗宴を

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年 3月 2日(土)04時59分49秒
返信・引用
  2013年3月1日、曇り。
今年も春一番、昼頃から突風が吹き荒れる。
リビングに活けた乙女椿が花開き、満開の白梅、土佐水木、水仙。
夕刻、城址公園に犬と城址公園に散歩すると、桜の森が風で轟々と鳴っている。

「私にとって”芸術”は饗宴であり、それは言語という虚構の世界における饗宴である。その饗宴が砂の上でしか可能でないところに、時代の運命がある。」
(磯田光一『砂上の饗宴』 新潮社 1972)

然り、孤独な情念の仮面の中に芸術の証しを結実させやう。
懐かしくも磯田光一(1931~1987)の凶々しい饗宴、その文学論集を改めて紐解く。
今どきのブンガク評論にせめぎあふ「おはなし」などにつきあっていられない。

もはや、時代の”運命”も何もない地平で、へこたれはしかつめらしく最終レースにむきあう。
「老い」の豊かさに夢みられる虚構の饗宴を秘めて。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

書簡・高橋和巳・辻邦生・埴谷雄高の行方について

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年 1月28日(月)18時45分46秒
返信・引用
  日本近代文学館・会報に執筆依頼された時、担当のKさんが有難いメールメールをくださった。
「高橋和巳書簡、たいへん興味深く拝見いたしました。Web上で広く、文学資料を公開することの意義はとても大きいものだと存じます」。

頃日、辻佐保子著『辻邦生のために』(新潮社)を読んだ。
辻邦生さん(1925~1999)からも書簡を3通ほどいただいている。
1通は「弱気になってはいけません」といふ激励、1通は『西行花伝』について、そして1通は「定家春秋」(未完)をすすめていられる頃の一文。
また埴谷雄高さん(1909~1997)からはハガキを5通頂戴している。

辻・埴谷書簡のweb公開は控へているが、これら書簡の行方についてお訊ねするとKさんは「小館といたしましては、いつでも有り難く、寄贈のお話を受け付けております」といふことだった。

さて、これらの書簡をどうすべきか、考えめぐらしている。

 

埴谷雄高の「精神のリレー」

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2012年12月 3日(月)15時31分28秒
返信・引用
  松本健一(聞き手)『埴谷雄高は最後にこう語った』
(毎日新聞社 1997年刊)より

■ぼくは精神のリレーということを言っていますが、高橋がぼくから受け取った精神は、ものの考え方ということであって(略)戦後文学を超える文章、文学を書いてくれていないですよ。

■ぼくは絶えず言った。こういう文章では」だめだと。


■高橋自身は学者になりたい気が強くあった。高橋の学者になりたいとう色気が文学を毒したわけです。

■文章はもう少しよい文章を書いてもらいたいと思って、これだけは何べんも言っても直らなかったですね。あれは不思議だった。

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妄想の日々に

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2012年12月 2日(日)18時05分42秒
返信・引用
  組織の中で凄んでみることはない。
ただ、のんべんだらりとしていればいい。

かくて高橋和巳は“日向ぼっこしている樽”の中で、その妄想をふくらます。
人類の頭蓋が熱気帯びてゆくまで、ニタリとしながら思考を詰める。
それが自閉症であろうといわれようが、しったことであるまい。

妄想が、新たな世界を展いていったのだ。
文学は非永久的革命者のアリバイだ。

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高橋和巳書簡8通の行方・保存

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2012年11月14日(水)14時54分23秒
返信・引用
  高橋和巳からいただいた書簡(1964年8月20日~1975年2月3日付)は手元に8通ある。

これはWEBサイト「高橋和巳研究」の「書簡」にすでに紹介・公開している。
「私信は当事者以外には秘すべきで、衆目にさらすものでない。
しかし、「作家の言動は広く語り継がれなければならぬ」との思いがあるからである。

昨年2011年初夏、日本近代文学館より「高橋和巳生誕80年、没後40年」ということで執筆依頼を受けた。
同館「館報」(2011年7月15号)に「孤高の修羅よ瞑らざれ」として掲載された。

この時、私は日本近代文学館の方に、高橋和巳書簡の今後の保存につき訊ねた。
「書簡の行方については、小館でも承っておりいつでもご連絡ください」ということだった。

さて、寄る年なみとともに高橋和巳書簡8通を棺を蓋いてまで固持してゆくか。
或いは寄贈・保管を早目におねがいしておくべきか。

――晩秋、穏やかに時が流れる。季節の移ろいに自然も人も変わる。
紅葉の彩りに沿うように山茶花の花が繚乱と咲いている。

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Re: 「憂鬱なる党派」を巡る座談会原稿の行方

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2012年 6月16日(土)00時44分13秒
返信・引用
  > No.52[元記事へ]

>太田代志朗さん

 すっかりごぶさたしております。

 ここしばらく面倒な本をこつこつ読みつづけているものですから、なかなか高橋和巳の作品には取りかかれませんが、ハーディの『日陰者ジュード』を読み終えたとき、ふと『憂鬱なる党派』の読後感に似たものを感じました。

 もちろん両者はまったく毛色の異なる作品なのですが、連想を誘ったからにはそれなりの理由があるのでしょう。いつになるかはわかりませんが、『憂鬱なる党派』を再読したいと思っています。

> 行方の分からぬ貴重な座談原稿は何者かにより故意に隠匿され消滅してしまったのか。無念極まりない。

 当時のことですから、ワープロ文書ファイルなど考えられなかったとはいえ、たいへん残念なことですね。
 

「憂鬱なる党派」を巡る座談会原稿の行方

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2012年 6月15日(金)04時32分27秒
返信・引用
  高橋和巳(1931~1971)の『憂鬱なる党派』(河出書房新社)は1965年11月に発行され話題を呼んだ。

翌々年「対話」同人の小松左京、三浦浩、北川荘平、石倉明、牛尾侑、豊田善治らに太田代志朗、古川修が京都・鴨川沿いの宿に集まり、「憂鬱なる党派」を巡る時代と背景について夜を徹した座談会を行った。

私はそのテープ越して纏めた原稿50枚を鎌倉の高橋和巳に送った。「見ておくよ」といった闘病中の高橋和巳はあへなく入退院を繰り返した。そして高橋和巳1971年5月逝去。座談原稿は「対話」8号・高橋和巳追悼号に載せるべく探索したが杳として分からづじまいだった。

その後、高橋和巳の蔵書関連の一部は坂本一亀の斡旋で近代日本文学館に収められた。高橋たか子著『この晩年という時』(講談社)によると、その他の蔵書関連はダンボール箱に詰められ高橋たか子、鈴木弁護士の事務所に引き取られた。ではその他の高橋和巳・関連資料はどこにいったのか・・・・。

行方の分からぬ貴重な座談原稿は何者かにより故意に隠匿され消滅してしまったのか。無念極まりない。
そこには『憂鬱なる党派』に関する時代と思想、角逐する青春群像が明らかにされていたのである。

 

多田富雄・新作能「花供養。

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2012年 5月11日(金)10時52分44秒
返信・引用
  世阿弥に魅かれ、詩的テキストとしての新作能に手を染めて何年たつのだらう。

浅学にしてその栄光なる舞台化の引き合いにいまだ預かったことはないが、新作能の上演についてはやはり理解ある演出家が何といっても必須条件だ。

多田富雄の新作能『花供養』は白洲正子没後十年目の命日に追悼公演として初演された。その多田富雄×笠井賢一による「作者と演出家の対話」(白洲正子・多田富雄著『花供養』藤原書店:2009年)は詞章、推敲、演出意図、配役、顔合せ、節付け、稽古と壮絶にして鬼気迫る一日一日の進行を明らかにしている。両者の創造のデーモンが沸々とする。

「演出家の意見を優先されよ」と能役者の勝手を許容しない慄然たるメールによる”往復書簡”に感動する。
「花の行方を尋ねん」と里椿の霊に向けた痛切な男舞だったのだらう。

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ひどい男なのか。

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2012年 4月 5日(木)10時08分34秒
返信・引用
  なるほどよくも言ってくれました。
粕谷一希『座談 書物への愛』(藤原書店)160~161ページ。

”高橋和巳というのは、ひどい男ですよ。ただ、彼が書いた本を読むと、彼自体が全共闘みたいなものだから、全共闘の精神はよく分かる。他は、ゲバ棒ふり回すだけで何を考えているかすらわからないから。高橋和巳を読むと、「なるほどこういうことを考えているんだ」と理解できる。そういう役目をは果たしたが、やはりひどい男ですよ。・・・・白川(白川静)さんに「高橋和巳はどういう人ですか」と聞くと、「そうだな、女々しい男や」、その一言で終わってしまった”。

ーーアカデミズムとジャーナリズムを知悉する者の弁たるやも。

 

葛藤と変節の辻井喬について考えへいる。て

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2012年 1月30日(月)21時47分56秒
返信・引用
  いまさらに小林秀雄の『故郷を失った文学』ではないが、確かに歴史はいつも伝統を壊すやうに働き、個人はつねに伝統のほんとうの発見に近づくといふことであらうか。

詩集『不確かな朝』(1955)を経て『異邦人』(1961)でデヴュー。
70~80年代の高度消費社会を西武セゾングループ代表としてその戦略と野望のもと一族の血のゆらぎに父との確執や愛憎のなかで『彷徨の季節の中で』(1969)、『いつもと同じ春』(1983)を書き上げる。負のコンツェルンの宿業をかかへる内的な闘いだった。

1991年セゾングループの破綻整理に伴ひそれまでの異端ともいはれた経営代表を辞任。
精力的な執筆活動とともに共同体の消滅した時代に向き合ふ。ここにおいて誰が思想的変節を笑おうや。

ーー私事において70~80年代の高度消費熱狂の時代から今日まで「堤清二=辻井喬」はまた一つの戦後文学の思想を継承する境位としてゆるややかな時の流れの中で重たくある。
戦後の断絶した伝統への志向や憲法9条の会など、性根すへていふのだが現下の情報氾濫の時代に辻井文学は実生活の実感を通じた論理的熱気として迫る。

そしていまなほつづくその「叙情と闘争」こそ鮮烈に彩られた悲壮的クロニクスであるいはねばならないのだらう。

 

2010年ーー寒中の弁。

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2012年 1月22日(日)14時19分32秒
返信・引用
  2012年ーーー新年があけ、すでに1月半ば寒中。
風雅の士ここに存へる寒中の弁。

昨年の高橋和巳の生誕80年・没後40年に際しては高城修三、立石伯、後藤多聞、橋本安央、に声をかけ高橋和巳研究会への参加協力をおねがいした。いづれも快諾いただきありがたかった。

研究会といってもまだささやかなネット配信で具体的なことはな何もやっていないのが現状であるけれども、ただ井波律子には私事あり今のところどこへも名を連ねたくないと丁重に断わられた。国際日本文化研究センター名誉教授なる中国文学研究の大家としてはさもありなんだろううが少し淋しかった。
井波律ちゃんはかつて拙歌集『清かなる夜叉』の栞に次のような文章を寄せてくれていた。

「あのころの高橋氏と彼らの関係性は、よくあるような、高名な作家と彼を身も世もあらずあがめる若者たちという、なにやらぞっとさせられる気色のわるい結び付きとは、決定的に異質な、もっと風通しのよい爽やかなものがあったと思う。

ーー私は太田代志朗ら当時若かった『対話』同人が、高橋氏亡きいまもなお抱き続ける感情のありかたを思う時、いつもなぜか”眷恋”という言葉を浮かべてしまう。男同士の全面的な信頼関係とそこに賭けられた時を越える思いの深さには、まったく想像を絶するものがあり、羨望を感じずにはいられない。」

ーーここに老い、世上乱逆耳に注せず寒中に滑稽なるまま存へているんだけどね。
 

埴谷雄高さんを訪ねし夜のこと

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2011年12月 9日(金)19時49分30秒
返信・引用
  木村俊介著『変人ーー埴谷雄高の肖像』(文春文庫)を読んでいるといろいろなことを思ひだした。

某編集者に連れられ吉祥寺の埴谷雄高邸を訊ねたのは1991年10月8日のことだった。
戦後文学の伝説と饗宴の邸宅だった。

ご挨拶申し上げると「そうですか。あなたが”対話”の太田代志朗さんですか」と埴谷さんに真正面から鋭く見つめられた。『死霊』を書き継ぐ凛々しい目だった。

応接間には大きなボッシュの絵の複製がかけられてあった。ワインに寿司をご馳走になった。その時いったい何を当方は話したのだったか。高橋和巳のことに関してお互い何も話題にあげなかったのだが、埴谷さんは礼を以て接してくれたのにちがいなかった。「こんなに初対面の人を歓待されることは滅多にないんですよ」と編集者に耳打ちされた。ありがたいことだった。

夕方の訪問は深更におよんだ。埴谷さんは最後に「じゃこれをさしあげます」と『戦後の先行者たちーー同時代追悼文集』(影書房)にサインしてくださった。同書には原民喜、梅崎春生、三島由紀夫、椎名麟三、花田清輝、武田泰淳、竹内好、平野謙、荒正人、福永武彦とともに高橋和巳の追悼12編が載っている。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

遥かなる第一次「対話」連中よーー小松左京・傘壽のお祝いに

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2011年 3月10日(木)20時26分26秒
返信・引用
  【日録】03月09日(水) 武州小庵、早春の日々。

ひと仕事終えぶらりと安寿を連れ昼下がりの元荒川縁を歩く。
早春の青空に雲が流れてゆく。

畏友古川修よ。
昨日の読売夕刊に小松左京氏・傘壽の大阪におけるお祝いの記事、
盛大な会で電子書籍出版事業にも取り組むといふ。

そのSF界大御所の写真の老いにびっくりしつつ茫々、
完全にオレ達はその後の関連性において新たな覚悟をしたのだった。

「まう関係ないよ・・・・」、
そう、貴君がいったのは或る年の5月、
朝の嵯峨野・二尊院を歩いていたときだったんだよね。

 

同士、いかがお暮らし候や。

 投稿者:太田代志朗メール  投稿日:2011年 3月 5日(土)20時45分45秒
返信・引用
  5月京都に結集ーー高橋和巳没後40周年。

同士よ。いかがお暮らし候や。いかがお過ごし候や。
「褐色の憤怒」もてゆけば弧城落日、無頼の手すさび筆ならし。
解体の憂鬱なる党派なりて存へ40年ーー五月闇に邪宗の門が軋む。
孤立の哀愁に泪が流れる。

春浅き日々、
ラム酒をちびりちびり日なたぼっこしている老いぼれなりてよ。

 

Re: 高橋和巳没後40周年について

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2011年 2月25日(金)18時52分39秒
返信・引用
  > No.43[元記事へ]

>太田代志朗さん

 こちらは春らしい春がないというか、いつ春なのかはっきりしないという悲しい土地
ですが、今日は少し暖かかったです。当地には梅というものがなく、桜の開花も五月の
中旬以降ですから、まるでお話になりません。

 そんなわけで、ひたすら五月の輝きを待ちわびているのですが、まだまだ先ですね。

> さて、高橋和巳没後40周年です。

 40年……もうそんなになりますか。世の中一変して、あの頃を思えばまるで夢のよう
です。かく申すぼく自身、彼は昔の彼ならず、いまやただの酔っ払いというていたらく
です。

> 昨年の三島由紀夫没後40周年の華々しい出版企画とちがい、これがいつわらざる現実なのでしょう。

 高橋和巳は三島に一目も二目も置いていたようですね。

 ぼくは最初に『潮騒』を読んだのがまずかったようです(笑)。たぶん体質的にこの手
の物語は合わないのでしょう、おもしろくもなんともなかったので、それ以来三島の作
品とは縁がありません。別の作品を読んでいれば、またちがった印象を持っていたかも
しれませんが……結局はぼくに見る目がなかったということなのでしょう。
 

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