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初めて参加させていただきます。

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 3月20日(金)23時02分38秒
返信・引用 編集済
  先般、ちょっとした偶然から、この掲示板を主宰しておられる、太田代志朗さんと少しばかりご縁を持たせていただくことができました。当掲示板、2月23日に太田さんが書き込んでご紹介くださった、齋藤恵(さとし)と申します。初めて参加させていただきます。1948年生まれ、今年67歳です。

ここに来られる多くの皆様と同様に、私もこれまでの人生の中で、高橋和巳氏に大きな影響を受けたひとりです。今でも、その世界を時折振り返り、現在の我が身のありさまを恥じる時間を持つことがあります。

貧者とは何ぞや、支配される者なり
支配とは何ぞや、悪行なり
悪行とは何ぞや、欲望なり
欲望とは何ぞや、無明なり
無明とは何ぞや、執着なり
ああ、如何にして執着をのがれんや、ただ信仰によってのみ
信仰とは何ぞや、救済なり
救済とは何ぞや、死なり
死とは何ぞや、安楽なり

これは、私が最も強い影響を受けた「邪宗門」の中に出てくる宗教教団「ひのもと救霊会」の奥義書の一節です。きっと皆様もご記憶にあることと思います。

この小説の発想の端緒は、すべての宗教がその登場の始めには色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張に伴う様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、近代日本の精神史を踏まえつつ、思考実験したいという高橋氏の強い思いでした。

「ここに書いたものは、あくまでさもありなむ、さもあらざりしならむ、虚実皮膜の間の思念である・・・。ただ、いかなる想像力もまったくの真空には羽ばたけず、いかなる夢幻の花も樹根は現実に根ざさねば枯死するゆえに、現存の宗教団体の2,3を遍歴し、その教団史を検討し、そこから若干のヒントを得た。とりわけ、背景として選んだ地理的環境と、2度にわたる弾圧という外枠は、多くの人々にとって、ああ、あれかと思われるであろう類似の場所および教団が実在する。」

1995年の今日、3月20日、猛毒のガスを無差別に撒いて、大勢の人々を殺傷した凶悪・愚劣な宗教を名乗る団体が現実にあり、その問題がまだ解決したとは言いがたい状態なだけに「邪宗」などという言葉は、たいへん使いにくくなってしまいましたが、実は私がこれまでの半生で、もっとも惹きつけられ、夢中になって読んだ書物のひとつはこの「邪宗門」という小説でした。多分、あの長編を数回は読んでいると思います。

そしてさらに告白しますと、私はこの小説がモデルとして取り上げた、明治期に誕生したある新興宗教の歴史を大学の卒業論文のテーマとしたのです。

それは京都府亀岡市に本部をおく「大本教」で、私の卒論のテーマは「大本教の史的考察 -立て替え立て直しから超国家主義へ-」というたいそうなものでした。

「三千世界一度に開く梅の花、うしとらの金神(こんじん)の世になりたぞよ。梅で開いて松でおさめる神国の世になりたぞよ。・・・いまは獣の世、強い者勝ちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。・・・これでは世はたちてゆかんから、神が表にあらわれて三千世界の立て直しをいたすぞよ。用意をなされよ。皆の衆、世が変わるぞよ。改心をいたされよ・・・」

明治25年(1892年)57歳の時、京都府北部、綾部の貧しい大工の妻であった出口ナオが神がかり状態になり、以後83歳で亡くなるまでの二十数年間に、半紙二十万枚にも及ぶ膨大な「お筆先」を書き続けたことから、この教団の歴史は始まりました。

私は学生時代に卒論作成の資料集めのために、しばらくの間、亀岡の教団本部にお願いして寄宿しながら、資料室に閉じこもっていたことがありましたが、当時は3代目教祖、出口直日(なおび)さんの時代でした。その後、第4代目教祖になられた聖子(きよこ)さんは当時まだ30歳台の若手幹部でした。資料漁りに東京から来ている、風変わりな学生のことを聞きつけて来られたこの方とも、一度資料室でお会いしたことがありましたが、その聖子さんも、今から十数年前の2001年に亡くなられたと聞きました。

今回、太田さんとの出会いがきっかけで、久しぶりに、あの卒論を手に取って見ました。実は私は当時としては異例だったのですが、卒論をコピーして一部手元に持っているのです。今にして見れば、まったく他愛のない内容ですが、今から46年前、22歳で全力投球で書き上げたその迫力の気持だけはたしかに感じます。

そんなわけで、「邪宗門」と「大本教」はまったく異なる存在ですし、ましてやオウムなどという醜悪なグループとはまったく質の違うものですが、明治、大正、昭和にかけてこの教団が経験せざるを得なかった2度の弾圧についても、かなり調べた記憶があります。

宗教心など極めて希薄な私ですから、当時から教団の教義そのものに興味があったわけではなく、あくまでも近代日本の社会史の中で果たした役割に関心があっただけなのですが、そんな私に「こんなテーマを研究されるようでは、おそらく就職もおぼつかないことでしょうから、よかったら当教団の資料研究員にでもなりますか? 雇ってあげますよ。」と親切に誘ってくれた資料室長の筧(かけい)さんという方がおられたことを思い出しました。今でもお元気かどうか、今の私には知るよしもありませんが、そんな善人ばかりの団体でした、あそこは。

時間を見つけながら、また続けさせていただきます。太田さん、皆さん、よろしくお付き合いいただけたら、うれしく存じます。皆さんのご投稿も楽しませていただいております。


http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi

 
 

梨木マンション②

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 3月 4日(水)22時02分53秒
返信・引用
  1960年代、梨木神社に隣接した北側に立命館大学の教官棟があった。
広小路学舎に教授室があったが、一部この教官棟に講師、助教授が研究室として設けられていた。

高橋和巳は1956年、同大中国文学部語学を担当し講師として赴任。
「悲の器」文藝種賞受賞の作家を私が訪ねたのは1963年。
広小路学舎から歩いて3分、高橋さんは広い研究室でにこやかに迎えてくれた。
高橋和巳の二階の研究室からは東山が眺望できた。

当時、御所の中に運動場があり、衣笠グラウンドで行う体育講習の時間に満たない者はここでソフトボールやテニスに興じ補欠時間を補った。
私もよくこの御所の運動場でソフトボールをやった。
そして、梨木神社をぶらつき、染井の名水も飲んだ。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

Re: 梨木神社のマンション①

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2015年 3月 4日(水)19時37分32秒
返信・引用
  > No.86[元記事へ]

>太田代志朗さん

 梨木神社のマンションは初耳でしたが、今日テレビで下鴨神社境内にも
億ションが建つというニュースを知りました。なんでも式年遷宮の費用を
捻出するためとのことです。

http://hakuhyodo.txt-nifty.com/smokingroom/

 

梨木神社のマンション①

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 3月 4日(水)17時20分56秒
返信・引用
  物議をかもした御所に隣接の全31邸「イーグルコート京都御所梨木の杜」(全31邸)の工事は着々とすすんでいる。

1億円越えのいわゆる億ション。参道に緑美しく生い茂る樹木御所周り、寺町通りの景観も大きく変わる。神社境内、参道上に建てられ、鳥居内にどっかりと鎮座する。

梨木神社の由来を調べると、明治維新、王制復古の立役者である三条実萬、実美父子。彼らを祭神に明治18年に創建された。
久邇宮朝彦親王の令旨により三条家の邸宅後に社殿を造営したもので、萩の名所、京都三大名水で今も唯一存在する「染井」の名水で名高い。

神社側としては、氏子の減少と社殿等の老朽化に対する維持も大変厳しいとの事から、敷地一部を60年に渡り貸す(借地権付マンション)。
最低売り出し金額でも1戸あたり6000万円以上という。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

カフェ・ド・エルサイトウにおける高橋和巳

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 2月23日(月)15時59分39秒
返信・引用
  ネットで好評の「カフェ・ド・エルサイトウ」の斎藤恵氏から、当方の「高橋和巳研究」のことで挨拶メールあり。
精力的な事業を展開している斎藤さんは学生時代に高橋和巳を読んで感動、大きな影響をうけてきたといふ。
その多彩なコンテンツの中に当方の写真や年譜などが引用紹介されている。

http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?mode=res&one=2&no=3376
斎藤恵氏の高橋和巳体験がどれほど深く衝撃的であったかがよくわかる。
その誠意あるメールもありがたくおもっている。

当方は”封殺された高橋和巳”がネットで浮かびあがることが一つの供養であり、また文学の真実の問題だとおもっているのにかはりはない。
あの憂愁と褐色の時代は永遠に総括されることはないのだらうけれど。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

『冬の旅』の悲哀と転落

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年11月21日(金)03時46分49秒
返信・引用
  ノーベル文学賞候補にあげられ今や国際的作家として話題呼ぶ村上春樹について一向に関心がなく、またその世界を理解できぬ浅墓な次第である。
こうした中で近来の大きな日本文学の収穫は、一つに辻井登の『冬の旅』(集英社)であらう、と思っている。

デジタル時代に相応した透明な文体が、その破滅の行程を浮彫にする。
強盗致死事件で滋賀刑務所を出所した36歳の男のドミノ倒しに墜落していく人生が一直線にえがかれている。
秋葉原通り魔事件、淡路阪神大震災などリアルな時代感を背景に、自己の葛藤や不条理を自問することより、なすがままの直裁な日常に動物的に埋没する。
そして、ついには大阪・釜ケ崎のドヤ街に流れつく。

物語は西方の補陀落への冬の旅でもなからうが猥雑に下降し、常に俯き加減の主人公の生い立ちやその後の転落が重層的な文学手法で編み出されている。

もっとも、私はそこに『憂鬱なる党派』の西村や家屋敷や藤堂の宿命のとぐろを巻くやうな転落と悲哀の片鱗をみているのであるけれど。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta.

 

郷愁のロープシン、憂愁の声。

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年11月 3日(月)15時04分29秒
返信・引用
  ロープシンの『蒼ざめた馬』の読書会を開いたのは京都時代の高橋和巳だった。同人誌「対話」の定例の会でのことだった。
その工藤正廣訳の『蒼ざめた馬 漆黒の馬』(未知谷:2006年12月発行)が手元にある。
ほとんど40年ぶりの刊行である。
当初(晶文社版)、『蒼ざめた馬』解説は平野謙であり、この『漆黒の馬』の解説は高橋和巳が担当している。
改めて高橋和巳の解説を読み返し、訳者は「名状しがたい感慨」を持ったと”あとがきで”いふ。

鎌倉の家に辛夷の花を持っていったこと。
病状の高橋和巳は身を越し「白皙の貌」で一期一会の対応をしてくれ、「その声の憂愁は忘れがたいものだった」とも工藤正廣氏は書いている。
それが「1972年3月のこと」としているのは高橋和巳没が1971年5月3日で何かの間違いだらうが、一つの時代がまさに”郷愁のロ-プシン”とともによみがへってくる。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

ありがとうございます

 投稿者:Kaoru  投稿日:2014年 9月 3日(水)15時50分46秒
返信・引用 編集済
  太田代志朗さま

ご丁寧なお返事を誠に有難うございました。
こちらこそ、御礼が遅くなってしまい本当に失礼致しました。

「高橋たか子挽歌60首」を拝読しました。私ごときが言うのも僭越ですが、
一つ一つの美しい御歌に深いお心が籠っているようで、これはやはり生前の
高橋さんと長きにわたってご交流を持たれた太田さまだからこそと感じました。
そしてそこに描かれた若き日の高橋さんの姿に鮮烈な印象を受けました。

『終りの日々』を読み、最晩年の高橋さんが孤独を深められていったご様子が
とても痛ましく感じられました。
文学に関する考え方は人によってまた時代によってさまざまでしょうが、
高橋さんが晩年に手がけられたお仕事が刊行されなかったことは残念です。
21世紀の日本の文学状況については否定的に捉えていらしたことでしょう。

9月にはいりやや涼しい日が続いております。
気候が不安定ですので、どうぞご自愛くださいませ。







 

kaoru様へーーふたたび。

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年 8月23日(土)21時49分23秒
返信・引用
  「高橋たか子」について関心を持ち、語れる方がいて、嬉しく思います。
その文学作品のどれだけを読解し理解しているかといえば、私は不勉強ですが、
今なお、悲しみとともに、塞がれる日々であります。

サイト「花月流伝」→WORKS→短歌→「装いせよ、わが魂よーー高橋たか子挽歌60首」
があります。

もし、よろしければ、お読みくださいませんか。
この一首一首につき、私は20~50枚の解説、小説を書く分量と等質の重みを込めています。

夏が過ぎてゆきます。
そう、また私も「情動言語」とかけ離れ、落ち流れているのでしょうが。


http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

kaoru 様へ

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年 8月23日(土)19時15分57秒
返信・引用
  8月始めにご投稿いただきながら、大変失礼しました。
もっと早く気がつけばよかったものを、他意はありません。
ご容赦ください。

追悼書評、お読みいただき恐縮です。
フランスのことは何も分かりませんが、爾来、また書庫の関連書を紐どいています。

どうぞ、いいお仕事を続けられますよう。
厳しい残暑、取り急ぎお詫びまでにて、ご自愛ください。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

大変失礼いたしました

 投稿者:Kaoru  投稿日:2014年 8月 3日(日)22時00分32秒
返信・引用
  太田代志朗さま

たびたび失礼致します。
貴ホームページ『花月流伝』で『終りの日々』の書評を見ることができることを
発見致しました。お騒がせしまして大変失礼しました。

私はクリスチャンではありませんが、翻訳などを手がけている関係から
たか子さんの書籍などに接し、優れたフランス語の力など、
やはり日本には稀有な作家だったように感じております。

今後も『花月流伝』を拝見させていただきたく存じます。
繰り返しになりますが、酷暑の折、ご自愛くださいませ。
 

終りの日々について

 投稿者:Kaoru  投稿日:2014年 8月 3日(日)18時39分39秒
返信・引用
  太田代志朗さま
初めて書き込みさせていただきます。
ときどきこちらのホームページを拝見させていただいている者です。

高橋たか子さんの『終りの日々』の追悼書評をお書きになられたということですが、
その御書評は出版物・あるいはネットで拝見することができますでしょうか?
お忙しいなか恐縮ですが、ご教示いただければ幸いです。

酷暑の折、どうぞご自愛くださいませ。
 

終りの日々ーー追悼書評

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年 6月 9日(月)20時24分40秒
返信・引用
  高橋たか子著『終りの日々』(みすず書房)の追悼書評について、梅原猛先生からは「よう書いてくれたね。悲しくなるね」といふ有難いお言葉だった。

橋本安央氏からは「”魂の行方”にたいする問いかけは常に根源的なのでしょう」と。またランボーを訳している小松剛君から図書新聞をみたといって早速ハガキをくれたのは嬉しかった。俳人の高橋博夫氏からはフランス同化の文学的宿命論の手紙いただく。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/index.html

 

わが日録ーー20414nenn 3月13日

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年 3月15日(土)10時57分37秒
返信・引用
  03月13日(木) 春雨に花の森が静まり返る。
朝の春雨の小止みにアンと散歩。花の森が芽を吹きだし静まり返っている。
かうして「憂き世にはとどめおかじ」と武州・小城下に埋もれていくのだらう。

夢幻庵・床の間に山中智恵子さんに書いていただいた色紙。
「くれなゐの雨降るこころ春の雨老いにけらしも老いざらめやも」。

わが追悼文藝論ーー「終りの日々」書評にとりかからねばならぬ2日、3日。
高橋たか子(1932~2013)の”内なるフランス”の苦悩と思索。
リビングの椅子で「何もするこがない」日がなぼんやりしている。
フランス語による聖書朗読。祈りと執筆。
リアルな生活は完全に欠落し、死が実感としてせまる。
「亡夫と私の二人だけの記憶は、天国にて保存されるもの」ともしるしている。

茅ヶ崎のホームで思ひと言葉に共振できる人がいなかったその晩年の孤独に胸がふさがる。

http://www/uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

鎌倉の幻の家

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年 2月15日(土)21時57分19秒
返信・引用
  高橋和巳は1967年、鎌倉に移住した。
鎌倉・二階堂の首塚の隣接、裏山から落ち葉が舞い落ちる平屋である。
京都大学教授赴任で家を空け、時々帰った。
それが全共闘運動の渦中にダウン、鎌倉の帰り病床につく。

高橋和巳逝去は1971年5月3日。
爾来、その鎌倉の家は静かな亡者の家になった。
新鋭作家を訪れた大勢の人の声を守る“番人”はいなかった。

1989年、新居に移り住んでいた高橋たか子は当家を7200万円で売却した。
バブルに沸く時代だった。
信仰の深い道に入っていた高橋たか子はその売却金を北海道の教会に寄付。

すべてが過ぎていった。
落ち葉舞う“幻の家”はあとかたもない。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

終りの日々に

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年 2月10日(月)11時20分34秒
返信・引用
  高橋たか子さんは『終りの日々』(みすず書房)で、
「ずっとずっと昔のどうしても書き残しておかねばならぬこと」としてつづる。

「亡夫・高橋和巳が1969年、
大学紛争の最中に京都からちょっと鎌倉に戻ってきて、私にだけ言ったこと。
河出書房の「文藝」の要求が嫌だ。

自分の思いどおりに書かせようと迫ってくる。金田君はよかった。
もういちど金田君になってもらうよう、何とかしてもらいたい。
――二十世紀が終る頃になって、私はありありと思い出したのだ・・・・」。

それは必至の言葉だったという。
私も大学バリケード封鎖中の京大中国文学の高橋和巳研究室を訪れていた時、
その編集者が強い言葉で原稿催促する現場にたちあったことがある。
それは若造の編集者にしては、口調も居丈高でひどいものだった。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

Re: 高橋たか子の終りの日々

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2014年 2月 4日(火)23時15分0秒
返信・引用
  > No.70[元記事へ]

>太田代志朗さん

> この私がいない。ここにいるというのにいない・・・

 その感覚はよくわかります。理屈ではなしに、実感として。

 では、自分はいったいどこにいるのか。いや、そもそも自分などというものが
「いた」のだろうか?

> 何もすることがない・・・

 これもまた…そもそもすること、すべきことなどあったのだろうか?

 それでもなお生きている。何もしなくては生きてゆけないから、むりやりその
何かをこしらえながら。

 むりやり何かをしても到底満たされないし、まさか麻薬を打つわけにもいかな
いから酒を飲む。そうかといって、絶望さえし切れない…世紀末にはずいぶん間
がありますけど、まあ、そんなところでしょうか。

http://hakuhyodo.txt-nifty.com/smokingroom/

 

高橋たか子の終りの日々

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2014年 2月 4日(火)19時56分2秒
返信・引用
  机のかたわらに積んであった1冊をとりよせる。
やっと読む気になった。
高橋たか子著『終りの日々』(みすず書房 2013年12月25日発行)。

明るい海辺の部屋でつづられた2006年~2010年の手記(手記だが発表前提に原稿用紙に書かれた)。
表現するものにしかわからぬ言葉
あなたの孤独、パリ、執筆、修道院、ペルソナ。

「考えている。考えている。これからどう生きるか?
ここにいない、と感じる。誰が? この私がいない。ここにいるというのにいない・・・・。
白い光の、ぱっぱっと炸裂する、真夏の、昼間を、ただ一人で茫洋と歩いている私自身・・・・。あの、ボルドー南部の、瘦せ地に、はてしなくつづく松林こそ、若い頃からの、私の夢のようなもの・・・・。
人生の最後の日々ーーという意識が、常に私にはある。その日々に、何をするか?
何も、する気がない、という気分があるのだ。むなしいわけではない・・・・。
何もすることがない・・・・」
(高橋たか子著『終りの日々』より)

 

「高橋たか子挽歌」について

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2013年10月20日(日)10時17分41秒
返信・引用
  このほど「高橋たか子挽歌」60首をサイトに掲出した。

鎌倉の新居をお訊ねした最後はいつのことだったらう。
パリ滞在からイスラエル巡歴などを経て深い霊的世界に入り、意欲的な創作活動をつづける高橋たか子さん(1932~2013)とはしだいに距離が遠くなっていった。

この30年あまりまったく会っていない。
いつだったか、それでも私のことについて書かれた一文に接したが「何をいまさらに・・・・」と思っていた。

それがこの夏7月に亡くなり、日のたつごとになぜかいいしれぬ悲しさがこみあげてきた。
葬儀・告別式に出ていないが、その思ひが忽然と歌になった。

回想と滂沱の100首がなされ80首に絞り、鎮魂の60首になった。
一首一首には極私的ドラマがあるがいっさい触れていない。


 

Re: 残暑ーーひとこと

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2013年 8月17日(土)18時46分26秒
返信・引用
  > No.64[元記事へ]

太田代志朗さん

 ごていねいに恐れ入ります。まことに頼りなき管理人で申し訳
ございません。

 こちらは天国のような涼しさですが、本州方面ではとんでもな
い暑さがつづいているようですので、くれぐれもお体を大切にな
さってください。

 なおご投稿がだぶっておりましたので、管理人判断にて、投稿
時間の古いほうを削除させていただきました。どうかご了承くだ
さい。
 

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