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季刊『悲の器』の創刊準備。

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 7月 7日(火)18時53分13秒
返信・引用 編集済
  文藝季刊誌『悲の器』を出したいと思っている。
懇意につきあっている編集者の従容もあって、是非、実現したい。
誌名の「悲の器」はまぎらわしく、おかしいとの1部の意見も聞いているが、これは絶対に悲の器でいきたい。
構想し、考え、不甲斐なく、あれこれ逡巡している。

高橋和巳研究会を各位の了承とともに設立したものの、その後の交流、研究、懇談会など多彩なプログラムを考えながら、何一つ具体化していない。
ひとえに不肖の責任であり、怠慢であり、ここに深くお詫び申し上げます。

季刊『悲の器』は、高橋和巳研究会メンバーの活動や近況の報告をはじめ、高橋和巳にまつわる小論でまとめていきたい、とおもっている。
むろん、同志の参加も大いに歓迎したいし、同志はもとよりわが研究会メンバーである。

悲哀の文学論が、いや何気ない日々の風のそよぎや、四季の花々の香りがつづられればいい。
ここに、お互いの情念の地平を展開していこうでないか。
憂鬱なる党派は解体し、黄昏の橋は崩れ、邪宗の門は永遠に開かれないのだ。

A4判・ソフトカバ-、最初は30ページでも、50ページでもいいではないか。
印刷編集費(資金)を用意しようとおもい、非力ながら未だすすまないでいる。

この文学不毛の時代において、われらの情的言語による饗宴をもとう。
各位の同意を得て執筆メンバーについては、広く呼びかける。
諸兄のご協力を切にお願いする次第である。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 
 

福島原発3号機爆発:プール内燃料飛散済隠し続ける為に,覆い隠す瓦礫,撤去わざと遅らせ続け。

 投稿者:命を大切に思う者  投稿日:2015年 6月24日(水)22時08分42秒
返信・引用
  プール内燃料飛散済か否か測定では判断できない(堆積の仕方がとびとび&測定器は数cm以内に近づけないと反応しないから)。
それを判断するには,プール内に使用済燃料が全部残ってるか否か見る以外に方法がないのに,未だに見せてくれない。

■経産省進捗報告のプール内の使用済燃料保管場所を覆い隠す瓦礫の撤去開始予定日の遅らせ方.
燃料飛散済を隠し続けるために瓦礫撤去開始予定日を,経った日数と同じ日数,後ろにずらし続けている。
彼らはこの1年半の間,何の作業もしていない。抽象的に「瓦礫撤去作業」をしてると言うだけでほとんど何もしていない。
移住させないと将来,数百万人が肺癌になるか否か,一目瞭然で判断できる場所を隠し続ける暴挙を許してはならない。今すぐ公開させよう。

遅らせ方の全体像(覆い隠す瓦礫の撤去作業の部分のみ抜粋)


遅らせ方の全体像(発表された予定表そのまま)


ソース
2014年5月に発表された開始予定日(「キャスクエリアのガレキ撤去」のところ)
2014年6月に発表された開始予定日(「キャスクエリアのガレキ撤去」のところ)
2014年11月に発表された開始予定日(「その他瓦礫撤去」のところ)
2015年2月に発表された開始予定日(「その他瓦礫撤去」のところ)
2015年5月に発表された開始予定日(「その他瓦礫撤去」のところ)
全部残ってると言い張るプール内燃料、いつになったら見え始めるんだ? 燃料保管場所を覆い隠す瓦礫をどけて...

《現状》   養生材置く直前の写真見せろ! 瓦礫少ない場所なら燃料写ってる筈だろう。

チェルノブイリの原子炉で起きた爆発と同種の爆発が福島ではプール内で起きた。

■プール内燃料の何割かが大気中に飛散していた可能性大の理由。

水素爆発によりラックが壊れたために、プール内燃料が、
密集状態になって発電時と同種の核分裂連鎖反応を起こし、
制御棒が刺さっていないために連鎖が暴走して超高温になって溶け、
周りの水を一瞬で水蒸気にしてそれに混ざって吹き上げられた、
と考えられる。
(録画を見れば、プール内の水が一瞬で水蒸気になって吹き上げられたように見えるではないですか)

[状況証拠]
2011年3月14日の3号機爆発で、
鉄骨が全体的にグニャりと曲がった、
それも内側に曲がった(爆風によるものではなく自重に耐え切れず曲がった)ことから、
鉄骨が1000℃を超えたと考えられる。
水素爆発による熱量では全然足らない(桁が違う)。
水素爆発で高温ガスが出来たとしても精々1トン。
一方、鉄骨は数十トン。
1トンが数十トンを1000℃まで上げられるわけない。
仮に上げられたとしたらその1トンの温度は数万℃あったことになってしまう。
水素爆発によるものという説明が如何におかしいかがわかる。
この説明をすると、
「高温ガスの熱は鉄骨の一部に集中的に渡されたからそこだけは1000℃を超えたんだ
(1000℃を超えたのは曲った箇所だけだったから、水素爆発の熱量で足りたんだ)。」
と言い張る人が出て来るけど、一部に集中的に渡されれば本当に1000℃を超えるのか?
鉄骨の一部が高温ガスから熱をもらっても、熱は熱伝導で鉄骨の他の部分に逃げて行く。
逃げて行く速さより、広範囲のガスの熱が集中する速さの方が速いというのか?
水素と酸素が2:1で混ざった気体の密度は1立方mあたり 0.48kg 。
それが爆発して出来た高温ガスの密度も爆発直後(膨張前)は1立方mあたり 0.48kg のまま。
一方、鉄の密度は1立方mあたり 7900kg 。
ガスと鉄骨では密度が10000倍くらい違う。
水素爆発で3000℃のガスが出来て、ガスの熱が、
熱が集中的に渡されたとされる、鉄骨のその部分に移ったとして、
ガスが3000℃から1000℃まで下がる(2000℃下がる)間に、その部分は何℃上昇するか?
その部分の体積の10倍の広さの範囲にあるガスの熱が全部
その部分に移ったとしても、その部分は2℃くらいしか上昇しない。
なぜなら、10倍の広さとは言っても、
質量に直せば鉄骨のその部分の1000分の1しかないから。
その部分の体積の5000倍の広さの範囲の熱が移ればその部分は1000℃上昇するだろうけど、
その部分の体積の5000倍の広さの範囲の熱が集中する速さの方が、
熱が熱伝導で鉄骨の他の部分に逃げて行く速さより速い、とでもいうのか?
要するに、ガスはスカスカだから、
5000倍という現実離れした広さの範囲の熱を集めでもしない限り、鉄を曲げられないんです。
なお、厳密には、ガスと鉄とでは比熱(温度の変わり難さ)が異なるから、
実際は、上に示した数値と少しずれはしますが、桁が影響を受けるほどではない、
水素爆発による熱量では全然足らない(桁が違う)ことに変わりはないです。

[核分裂連鎖反応は原理的にあり得るか]
プール内にある使用済燃料は、原子炉にある燃料と同じものです
(劣化してて連鎖が起きにくいというだけで、起きなくなるまで使い切ったわけではない)。
ラックが壊れて密集状態になれば、発電時に原子炉で起きてることと同じことが起きます。
しかも制御棒が刺さっていないのだから連鎖が行過ぎて超高温になってもおかしくない。
原理的にあり得るんです。
御用学者達の、原理的にあり得ないという結論は、
ラックが壊れていないという現実離れした仮定をして出した結論です。
彼らでさえ、使用済だから連鎖しないとは言っていないし、暴走しないとも言ってない。
彼らの結論は、あくまで、ラックが壊れていないという仮定に頼り切った結論です。

■東電テレビ会議録画 : 2012/10/5公開分 : 本37-6の0:33~
3号機爆発:ただの水素爆発だったことにするよう口裏を合わせている場面 → youtube ニコニコ
 オリジナル → 《東電サイト内の写真・動画集頁》 内の「本37-6」0:33~。 転載 → youtube
現場に居ない保安院がTVで「水素爆発以外に何も起きていない」と言ったのは、
全くのあてずっぽうです。
東電は何の調査もせずに、そのあてずっぽうに合わせた。
それがたまたま当たってればいいけど、状況証拠(鉄骨グニャグニャ,300mまで一瞬で昇った上昇気流)を見ると、外れてる可能性が高い。
プール内燃料の何割かが、発電時と同種の核分裂連鎖反応を起こし暴走して溶け大気中に飛散した可能性が高い(水素爆発で動いた水の力でラックが壊れ,燃料が密集して発生( 《解説》 ))。
もし、そのあてずっぽうが外れててプール内燃料が飛散していた場合、
このままにしておくと、200km圏内の数百万人が10年後に肺癌を発症することになる (要移住)。
■一日も早く真偽を見極めるため、3号機プール内の瓦礫の下を早く公開させよう。
《現状》 養生材置く直前の写真は絶対要公開。

http://blog.goo.ne.jp/fukushima_power_plant_watcher/

http://fukushimadisasternote.1apps.com/

 

哲学、ユーモア、悲劇ーー日録6月18日

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 6月19日(金)12時24分45秒
返信・引用 編集済
  畏友・依田啓一と関西空港ゴルフ倶楽部(18ホール パー72、6310ヤード)をラウンドしたのは、夏の暑い日だった。
前夜の酒席では話しも尽きず、このうえなく楽しいプレーの1日だった。
ドライバーはヘッドスピードがきいて、白球が遠くフェアウェイに転がった。
ホールインワンを3度達成したそのショットは鋭い快音をはなった。

いつでも帰ってこいよ。またやらう、とヤサグレに友はいった。
高校時代からの長いつきあいであった。
家業の模造真珠製造会社を手広く発展させて代を譲り、ライオンズクラブの重責をになっているといふことだった。
ゴルフの会員権はバブル崩壊で1億円近い大損をしたらしい。

プレー後、私は慌ただしく京都へ向かはねばならなかった。
クラブの風呂上りの上気した顔を寄せ、お互い手を振ってわかれた。
ベンツの運転席の日焼した友人の顔はひと遊びしたあとの充足感にみちていた。
その依田があっけなくガンで逝去して10年近くたつ。
空しさがつのる。
空しい風がよぎっていく。

スコットランドやハワイの名門コースの写真入り豪華本を広げる。
苦闘と至福のラウンドが風の匂いにまこじってつたはってくる。
さう、「哲学、ユーモア、悲劇、ロマンス、メロドラマ、交友、有情、へそ曲がり、そして会話が80%、力学・技量が20%」なるゴルフの真義は深い。
Mさん、それでは7月早々の大平台CC。ゆっくりスローバック、スローダウン。
月例のようなかたちになっているが、何とかナイスボギー死守をとねがふ。

ーー昨日は練習場打ち放し600発。
シニアのドライバーは年々ヘッドスピードが落ちる。
180ヤードでよしとしておかう。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

杉本秀太郎氏ご逝去。

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 6月 2日(火)14時57分33秒
返信・引用 編集済
  杉本秀太郎氏(仏文学者)が5月27日逝去された。享年84。
葬儀・告別式は31日、京都・奈良屋杉本家(生家で京都市有形文化財)で。
葬儀委員長は冷泉為人氏(冷泉家時雨文庫理事長)。

杉本さんは富士正晴主宰の「バイキング」同人で、同誌連載中の高橋和巳の『憂鬱なる党派』の文体を徹底的に批判した。
リズムの悪い硬質の漢文調の文体を、悉く一蹴した。
それは同人の会合でも行われ、満座の中で高橋和巳は打ちのめされた。
業を煮やし、高橋和巳はひとり焼け酒を飲んだ。

文芸書受賞とともに流行作家となり、その勢いで上京。
念願の作家生活を始めたが、再び京都大学助教授になり、折からの全共闘運動に加担して、高橋和巳は心身ともにボロボロに崩れていった。

1971年5月9日。東京・青山葬儀場で葬儀告別式執行。葬儀委員長=埴谷雄高。
杉本さんは高橋和巳の葬儀に只一人京都から参列した方だった。
二人の「分けへだてなくお喋りし、酒を飲む日」はついにかなえられなかった。
小松左京ら関西系を切ったたか子さんの願いで、杉本さんが弔辞をよんだ。
その弔辞は、たか子さんのたっての京大仏文の流れへのおもいからだった。
京都系の一部の方は病院に見舞いで訪れ、最後の別れをしたのだが、いづれもこの葬儀には参列していない。


杉本さんは京都に生を享け、京都そのものを肌身にしたフランス文学者であった。
生っ粋の京都人によるその極上のエッセイに胸をうたれた。
私は、杉本秀太郎著『隠された意味』(平凡社)の10枚書評を季刊誌「月光」3号でとりあげていた。
“京棲みのヴォワイアン”の目を感じ入っていたからだ。

伊東静雄、太田垣蓮月、洛中棲息、パリの電球、京都夢幻記など綾と淀みに深くひびきあう文章で、パリと京の匂いに満ちていた。
そして京呉服商奈良屋当主であり、「杉本家住宅」は京町屋の代表例として、重要文化財に指定されている。
富士正晴は京都にくるとこの杉本家に、3日でも4日でも1週間でも気ままに泊まっていった。
また、杉本さんは祇園祭山鉾連合会副理事長であり、祇園祭の維持・継承につとめる旦那衆でもあった。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

1971年5月3日でしたね。

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 5月 4日(月)17時10分3秒
返信・引用 編集済
  高橋和巳氏が永眠されたのは、1971年5月3日(月)午後10時55分でしたね。今から44年前のことになります。

私も記録を保存しておく方でして、日記代わりの当時の手帳を見ましたら、当日は結婚前の妻の実家(福岡県筑後市という、久留米市の近くにある街です)を連休を使って訪れており、当日は久留米の石橋美術館で開催されていた、坂本繁二郎展を見ていました。前年に入社した会社の新人社員の時代でした。

そうですか、あの時、太田さんは軽井沢から鎌倉に駆けつけられたのですか。たか子さんも、今は亡く、当時の関係者も多くは他界しておられますね。でも44年後の今でも、こうしてあの頃のことを心を込めて思い出している方が現実におられるのですから、高橋和巳氏の存在は、やはり大きかったのだと思います。

軽井沢へ行くには、4月半ばくらいまでは、スタッドレスタイヤが必要です。さすがに4月末になると、だいぶ春めいてきます。桜の花は、4月末から5月始めが盛りとなりますから、東京よりも1ヶ月ほど遅いのです。

軽井沢の隣町、御代田(みよた)町に「雪窓(せっそう)公園」という公園があります。最高の桜を、ほとんど人混みナシに見られる絶好の桜の名所なのですが、実は私はそこが大好きでして、今年も4月末に行って来ました。

来年からは、高橋和巳氏の5月3日の命日のことも忘れずに雪窓公園に桜詣でに行って参ります。5月初旬というと、東京ではたいていの人は、もう桜のことなど忘れている時期ですが、あの地域ではその頃なのです。

あらためて高橋ご夫妻のご冥福を祈らせていただきます。和巳氏が、もしも今でもご存命でしたら、今年84歳になられていたのですね。

http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi

 

和巳忌ーー2015年

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 5月 4日(月)14時18分58秒
返信・引用 編集済
  あの時、軽井沢から急いで帰ったのだった。
つましい生活の日々。所帯をもち生きていくのに精いっぱいだった。

京都の流離の日を切り上げ、上京して3年目。
南浦和の安アパートから新座の公団住宅に移ってまだまもなかった。
高度成長にわき、サイケデリックな都会に夢を抱きながらも疲れていた。
マスコミ・出版・宣伝PRの世界の周辺で、分を秒にきざむ日々だった。

まだ子供も小さく、妻のお腹には二人目の子が宿っていた。
高原の夜は寒く、つかの間の休暇のひとときだった。

書くものは実をなさず、生業のあわただしさに身を削っていた。
文芸誌「新潮」から連絡があり、一作(100枚)を送った。
「急がないように」と編集者にいわれ、掲載は見合わせられていた。
二作、三作と書いて送るべきを、あえいでいた。
頓挫していたのだった。
「いいか、雑文は書くな。真剣に取り組め。文学するとは一寸釘を身体に打つようなものよ」
そういわれ、何一つ、まだなしえていなかった。
生活に追われていたのだろうが、それが理由にならない。

この1年、高橋和巳が危ないという噂は流れていた。
東京女子医大へ井波律子、古川修と見舞いにいったが、たか子さんにお会いするだけだった。
後日、「よければ、いらっしゃい」と、
たか子さんにいわれたが、なぜか行くのをためらった。
それがお別れを意味することを私は知らなかった。

ーー軽井沢から鎌倉へ、急ぐ心を抑へ、動転しながら向った。
滂沱の涙が流れた。
「ゴメン。あなたにはほんとのこといわないで」
鎌倉の通夜、たか子さんは、私の肩をたたいていった。
棺の前で埴谷雄高、井上光晴さんらが何か話していた。

斎場でとりあげた白骨に無情の鐘が鳴った。
バッハの無伴奏チェロ・ソナタ。
あの重々しいチェロの独奏ーー東京・青山斎場における葬送曲。
会場には全共闘の学生が大挙駆けつけるのでないかと、一時、騒然となった。
京都勢では杉本秀太郎氏がみえ、弔辞をよんだ。

流れていった歳月のことをよくかんがへる。
いや、すべては用づみの舞台装置のように霞がかっているといふに。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

京都のこと

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 4月25日(土)18時53分33秒
返信・引用 編集済
  初夏のまぶしい日差しに躑躅が咲き乱れています。
ちょっとここのところ多事多情の日々にて掲示板を失礼していました。
斎藤恵さんは京都の春を満喫され、よかったですね。
「都をどり」のこと、多角的に考察され、大変興味深く感じました。

私事、もう随分「都をどり」はいったことなく、忘却の彼方になっていました。
ふと、華やかなひとときのことをおもいだしています。
顧みれば、友人たちはいつもあの舞台の照明の仕事に当り、会場整理の手伝いをしていました。
衣装合わせから半月以上のお稽古、ほんまの楽屋化粧風景をのぞかせてもらったこともあります。
そうそう、いただいたお弁当のおいしかったこと。
お弁当は菱岩、いやうどんは祇園や宮川町の仕出し屋のものがわすれません。

ヨーイヤ、セイで始まるあの何ともいえぬ舞台。
1960年代のことで、舞子はん、芸妓はんに指導していたのは猪熊兼繁氏(京大教授)でしたね。
私はあの舞台の台本(脚本・構成)を書くべく奔走(?)したのです。
が、もとより吉井勇や谷崎潤一郎の文才なく、地唄舞のお師匠さんの名ざしで台本3本、武原はんの「「雪」を真似てつくったりしていました。
友人の家のお茶屋に籠って、朝4時に明ける銭湯「桜湯」をまって遊びふけていましたからね。

京都花街文化史も古都の雅な一端、紅袖しずかに凭(よ)り、花柳の風流あまねく遊人に付す。
私には旦那衆の粋はもとより分かりませんが、京都はいろいろ楽しいところですね。
老舗旅館「炭屋」の先代は堀部公允さんで、もともと私の高校の自由科選択の演劇の先生でした。
炭屋主人になられてからは裏千家老分を勤め、また師走をかざる京都「素人顔見世」の「助六由縁江戸桜」の助六は水もしたたる好演技で沸かせました。

そして不思議に、今、なぜか若い母とあの高雄の神護寺の石段を一つ一つ歩いていく情景がおもいおこされてきます。
紅葉の舞う時節だったか。
いや、あれは母が白いパラソルをさしていたときだったか。
なぜか、そこでは、幼少の私は母の悲しみを不思議に感じいっているのです。

また東京三宅坂の国立劇場で毎年開催の「京舞」もいいものですね。
井上八千代一門がやってきて、よく声をかけられ、いっていたものです。
あの劇場ロビーからはお濠の常盤の緑の松が見え、京ことばでいっぱいの華やかなひとときです。
ーーとりとめなく書きましたが、ご容赦ください。

ちなみに、高橋和巳がつかっていたお茶屋は祇園の「岡あい」でした。
何と時の流行作家は37、8歳でお茶屋通いをしていたのですね。
こじんまりしたお茶屋で、私はそのお座敷で泥酔した高橋和巳を目の前にしています。
「おい、いいか。お前にはこのお姐さんの美しさがわかるか」と芸妓を引き寄せいうのです。
夛田道太郎さんら京大系の先生がつかっていたようですね。
梅原猛、小松左京が全共闘運動にのめり込む高橋和巳を心配して説諭し、逆に「何をいっとるか」と厳しく攻めれられたのもこのお茶屋でした。

後年の京巡りで嵐山吉兆始め、いろいろなところへいき楽しくやってきました。
友人たちと会えば酒盛りだけで激論・激闘で2日、3日、たちまち過ぎてゆくのです。
日本ペンクラブの京都フォーラムも関係各位の協力で盛大に開催できたのでした。

料理関連で菊水、瓢亭、魚新楼、菊之井、竹茂楼、たん熊北店、土井、千花、大市その他で堪能してきました。
さりながら、私には錦市場や出町の枡形商店街の鯖すしが何よりの好物です。
昨今、祇園の丸山など評判ですが、さてどんなものなのでしょうか。
今度いったら、円山公園の奥にある旅館「井雪」に是非泊まろうとおもってまだはたしていません。
が、やはりあの「岡あい」のことが何と言っても忘れることができません。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

白虹

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 4月18日(土)16時40分48秒
返信・引用
  花街の祭典、「都をどり」から、突然、テーマが変わって恐縮ですが、そのような多面性を持つ者のワガママと、どうかご容赦ください。

昨今の政権与党による報道機関に対する猛烈な圧力を見ながら、私は日本はとうとうこういう段階に来たのかと、あらためてハラを決めています。報道機関は政府による許認可事業ですから、廃業も含めて、権力者ならどんな圧力でもかけられるのです。でもだからこそ、戦前の悲惨な状況を再現させないために、報道の自由や、放送法が制定され、時の権力者に不都合な事実でも、事実である限り、国民に知らしめる自由を報道機関に保障してきたはずでした、少なくとも表向きは。

それを破廉恥にも、堂々と壊し、情報操作によって国民の意識を権力者の都合のよい方向に向けようという企みを、今や隠そうともしなくなっているのです。私見ではこれは原発の再稼働と同じくらい危険なことだと思います。そしてそんな状況の中で、私が今思い浮かべているのは、「白虹事件」のことです。

「邪宗門」の第24章で、「ひのもと救霊会」は半ば偶発的な事件をきっかけにして全面蜂起するのですが、その章を高橋和巳氏は「白虹」と題していました。

漢文で「白虹日を貫く」と言うと、それは国の大乱、革命を意味するのだそうですが、氏はさすがにその分野の専門家ですね。たいへんふさわしく、しかも魅力的なタイトルをつけたと思います。

その「白虹」を事件名にした「白虹事件」とは、今から97年前に起きた、政府による悪質な言論弾圧事件です。現在の日本社会のありようと、政権中枢に居る人々のやり口を見ていますと、ぞっとするほど類似していますので、ここであえておしゃべりさせていただきます。

話は、1918年(大正7年)にさかのぼります。大正デモクラシーが頂点を極め、前年秋のロシア革命が、世界中を震撼させていた時期のことです。

1918年8月、シベリア出兵をあてこむ米の買占めによって米の値段が暴騰しました。あまりの不条理さに、富山県の漁村のおかみさん達が大挙して米屋におしかけ、打ち壊しを始めたことに端を発した「米騒動」は、たちまち全国に広がりました。

東京・大阪・神戸などの都市では焼き打ち、強奪の大暴動となり、政府は警察だけでなく、軍隊までも動員して、力ずくで事態を収拾しようと懸命でした。

時の首相は、長州閥、陸軍出身の寺内正毅でした。内閣は暴動拡大防止を理由に8月14日、米騒動に関する一切の新聞報道を禁止しました。報道の全面規制です。

それに対して、新聞記者側は全国的に呼応して「禁止令の解除」および「政府の引責辞職」を要求し、記者大会を開きました。8月25日に開かれた関西記者大会には、九州からの出席もふくめて86社、代表166名が参加し、それぞれ強く政府を弾劾しました。

大阪朝日のその日の夕刊には、大会の記事が掲載されましたが、その中に「白虹」という言葉がありました。

「『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」という文章です。そしてその一節の前には、「我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいてゐるのではないか」とあったのです。

かねてから言論弾圧の機会をねらっていた、寺内政権は絶好の機会とばかりに、ここで一挙に攻撃に出ました。朝日新聞の報道を「朝憲紊乱罪」(天皇制国家の基本法を乱す罪)という当時最大の罪にもあたるとし、新聞紙法違反により、これも最強力の罰則である「発行禁止処分」、つまりは廃業、会社解散に追い込もうとしたのです。

当時は稀代の悪法、治安維持法はまだ成立していなかったのですが、そのわずか7年後の1925年(大正14年)には、政府は治安維持法を強引に成立せしめ、1928年にはさらに改悪して、恐怖政治の道具として大いに濫用しました。

検事局は問題の記事の筆者である大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄氏を起訴し、各6ヶ月の禁固刑の上に、朝日新聞の発行禁止処分を求刑しました。右翼のボス達の組織である大同団結浪人会は、朝日新聞を「非国民」と断じて、その処分に関して司法権を監視すると決議しました。

朝日新聞の村山社長は、当局に対して監督不行届きを陳謝し、社内の粛正を誓いましたが、9月28日、新聞社からの帰途、大阪・中之島公園内で数名の暴漢に襲われました。

乗っていた人力車は転覆し、村山は暴漢に杖でなぐられたのちに「代天誅国賊」としるした布切れを首に結ばれ、石灯籠に縛りつけられました。

暴漢たちは、「檄文 皇国青年会」と記した印刷物数百枚などを現場にのこして逃走しましたが、その後の調べにより、黒龍会の所属であったことが判明しました。

結局、寺内内閣は9月のほぼ同時期に退陣し、9月29日、原敬が首相兼法相となりました。原は郵便報知新聞の記者から大東日報の主筆をへて外務省に入った経歴の持主であり、その後にまた大阪毎日から請われて契約社長に就任したことさえあるという、新聞界を熟知した人物でしたので、かえって新聞操縦術にたけていたと言えるのかもしれません。

村山朝日新聞社長は、原を訪れて寛大な処置をもとめ、編集首脳とともに自分も辞任することによって、朝日新聞は「発行禁止」、つまりは廃業をまぬかれました。

原は朝日新聞新社長の上野理一を電報で呼び寄せ、鈴木司法次官立会にて決意をたしかめ、起訴された社員に対して、判決には控訴しないよう説得することまで約束させました。

この会談の3日後にあたる12月4日に、2人の被告はともに「禁固2ヶ月」を言い渡されましたが控訴せず、朝日新聞は発行禁止処分=廃業処分を受けなかったのです。

政府の理不尽を弾劾する新聞記者の大会を開催できるような社会的環境が、かろうじてでもあった時期から、ほんのわずかの間に、全国の新聞は、朝日新聞が受けた脅しに震え上がり、メディア本来の役割を放棄することになったのです。

流れは始まるとあっという間に奔流になります。甘く見ていると、いつの間にかとんでもない事態になってしまったという事例が、近現代の世界の歴史にも、わんさとあります。だからこそ、私達は実際は何があったのかをよく知るべきですし、知る努力をするべきだと思います。

本来は、美しい、夢の架け橋であるはずの「虹」から、こんなことを連想しなければならないのは、私自身にとってもたいへん悲しいことですが、「白虹」の彼方には、なしくずしの戦争と悲惨への道が開かれていったのです。どうかご記憶ください。

最後になりますが、この記事の筆者であった大西利夫氏(偶然ですが、大西氏も高橋和巳氏と同じく、大阪生まれで、京都大学文学部のご出身でした)は後年、こんなふうに語っておられました。ちなみに氏は朝日新聞を退職させられた後は、松竹株式会社に拾ってもらい、脚本家として戦後まで生き延びました。没年は1977年、88歳でした。

「白虹事件というのは、日本の言論史の上でかなり大きな意味をもっておりまして、『朝日』もこれ以後変わりますし、他の新聞も、うっかりしたことは書けん、というように……。

そうなんです。その時の『朝日』のあわて方もひどかったんです。天下の操觚(そうこ)者[言論機関]を以って任じ、一世を指導するかのように見えた大朝日も権力にうちひしがれて、見るも無残な状態になる有様を私、見たような気がして、余計ニヒリスティックになったんです。世の中のこと、すべていざという時には、こんなものか、というのが若い頭にピシと入った。これはいまだに入っています。」

報道の現場にいる数少ない心ある人達は、今どう考えていることでしょうか?

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都をどり

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 4月17日(金)22時21分7秒
返信・引用 編集済
  私の拙い書き込みが、敬愛する太田さんにある種のプレッシャーをおかけしていたなどとは、つゆ知らず、申し訳ないことをしました。ごめんなさい。当の私はいい気なもので、4月1日から妻と2人でしばらく京都に花見に出かけておりました。ついでに祇園町の芸舞妓衆による「都をどり」も楽しんで参りました。祇園町は、晩年の高橋和巳氏もよく訪れた花街(かがい)だと聞きます。でも氏は、「都をどり」などはご覧にならなかったでしょうね、きっと。

私は妻に連れられて初めて見たのですが、いわば日本舞踊の発表会のようなものですから、観客はほとんど女性かと思っていたのですが、さにあらずでした。意外と男性客が多かったのには驚きました。まあチケットが芸妓衆や、お茶屋筋から出回るわけですから、出向かなければならない義理のある男達が多いということでしょうか? 私も積極的に見に行ったわけではありませんが、見るからに、義理で見に来ている風情の男達が私の他にも、けっこう居ましたよ。

ところで「都をどり」は、今年が143回目なのだそうです。明治初期、東京遷都の影響で寂しくなってしまった京都を盛り上げようと、明治5年(1872年)に祇園町が始めました。毎年4月に開催されるのですが、(現在は4月1日から30日間ぶっとおし)、もしも年1回だけ休みなく開催されていれば、今年は144回目になるはずだと、(2015マイナス1871ですから)、つまらない数字につい関心を持ってしまう私は、当日会場でもらったパンフレットを繰ってみました。

そうしましたら、やはりここにも戦争の影が残っていました。1944年(昭和19年)から1949年(昭和24年)までの6年間は、戦争のせいで、さすがの祇園町も「都をどり」を開催できなかったのです。でもそれではまた開催回数が合わなくなってしまうと、さらにパンフレットに目をこらしましたら、大正天皇即位だの、昭和天皇即位だのという「御大典奉祝記念」とか、「東京オリンピック開催記念」などの追加開催で年2回やったことが何度かあったのです。それでこういう回数になったことが判明しました。

花街の祭典ですから、京の雅や四季の美しさを讃える演題が多いのは当然ですが、昭和13年以降、18年までの歌題は、今にして見れば笑ってしまうようなお題目でしたので、ちょっとご紹介させていただきます。まあ当時は必死の思いで、こんな歌題をつけたのでしょうね。そうしないと、お上が開催を許してくれないだけでなく、「国家の非常時に、そんな贅沢遊びをするのは非国民だ!」などと本気で言って圧力をかける輩が大勢いたのでしょうね。

昭和13年  旭光遍輝
昭和14年  建武の源
昭和15年  輝く聖蹟
昭和16年  旭光耀海洋
昭和17年  御国の誇
昭和18年  皇国のみやび

ちなみに、143回目の今年の歌題は、「花都琳派染模様」というものでした。狂気の軍国主義が国中を覆い尽くすまでは、だいたい今年のタイトルと同様なものでしたよ、当たり前のことですが。

日本舞踊には、さして関心を持っていない私でも、やはり見事な舞台だと思いましたので、きっと水準は高いのだろうと思います。

ところで、会場は「祇園甲部歌舞練場」という、建仁寺の近くにある会館なのですが、収容人数をカウントしてみましたら、イス席が698席、それに桟敷席が24ありました。桟敷席はけっこう大きなものがありますので、1桟敷5人平均としても120人分くらいは入ります。

そうすると、総収容人員は少なく見ても約800人。それを1日4回、ほぼ満席にします。このあたりが、祇園町という花街の底力なのでしょうね。ということは1日にほぼ3千人として、30日間で9万人が入場料を払って見に行きます。

入場券は、2500円の自由席弐等観覧券、4200円の指定席壱等観覧券、そして4800円の茶券付特等観覧券の3種類がありました。平均を少なく見積もって3500円としても、1日の興行収入は1050万円。30日間の合計は、ざっと3億円ということになります。うーん、祇園町、畏るべし。

という次第で、太田さん、私はこんな俗物ですから、どうかあまりお気になさらぬよう。これからもよろしくお付き合いください。


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春日憂愁

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 4月16日(木)22時45分36秒
返信・引用
  当地では花が散り、春の夕べの酒はまたひと味ちがいますね。
お互い花の時節にそれぞれの楽しみ、歩みがあったことでしょう。

この掲示板で「太田さん、お互いにハラをくくりましょう」と真っ向からいわれてたじろぎ、また五山の送り火の戦時中の「白い大文字」に、「いかがですか?」とつきつけられて、とまどっていました。
まったく年甲斐もなくうろたえていました。

60年代トロッキストの周辺でオダをあげ、暑い夏の京都では嵐山に泳ぎにゆき、或いは市内と10度ちがって涼しい貴船にいって昼寝。
いやあの厳寒の冬に耐えて、死ぬ思いで勉強したのでした。
その後の京都はもう巨大なテーマパーク。いろいろなお人に来てもろうて、たんと気張ってくれたらよろし。

気ままに極私的文学論をつらぬくしかありません。
ーーってこれも、また一つの逃げ口上でしょうし、ろくでなしの人類が切り込む政治であり文学のエントロピー。
そう、9・11以来、“民族と宗教”の戦争が始まったのであり、それが第3次世界戦争という人もいるようですね。

とまれ、八重の花が咲き始めました。
憂鬱なる党派が解体され、今少し思想的、美意識的に明け暮れ、加えて行動的に自己演出するのもだいじなことだと思っているところです。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

Re: お世話になります。

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2015年 4月 1日(水)08時46分24秒
返信・引用
  > No.98[元記事へ]

齋藤 恵さん

 どうもありがとうございます。こちらこそよろしくお願い申し上げます。

 齋藤さんのサイトへおじゃまし、「清閑寺」の記事などを拝読いたしました。
第一印象だけで満足してしまう私とはちがって、なにごとも深く考察される姿勢
には深い敬意を感じます。これから記事を少しずつ読ませていただくつもりです。

> 私は明日から妻と共に、また京都へ出かけます。京都はわずかばかりでもお金
を持って、カモになりに行くには最高の場所ですね。

 どうか存分にお楽しみください。

 京都はお金がなくとも(あればもちろん結構ですが)むやにみ歩き回るだけで
楽しめる町だと思います。ただし個人的には、一住民として暮らすのはちょっと
しんどいかなという気もいたします。特に東えびすの一人としては……

http://hakuhyodo.txt-nifty.com/smokingroom/

 

お世話になります。

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 3月31日(火)10時39分24秒
返信・引用 編集済
  薄氷堂さん、早速のコメント、どうもありがとうございました。

太田さんとのご縁から始まって、これまではまったく存じ上げない方々と、こうしてご縁を持たせていただき、ありがたく思っております。これからも、この掲示板でお世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

薄氷堂さんのサイトを少し拝見したのですが、ずいぶんと奥行きのあるサイトですねえ!京都に関することだけでも、内容豊かなページが続き、ついつい引き込まれて見させていただきました。学生時代を京都で過ごされたのですね。

たまたまですが、私がよく存じ上げている方々の中に、北海道のご出身で京都にある大学で4年間を過ごされた方が二人おられます。その方々は、結局北海道には戻らずに、東京で人生を過ごされたのですが、お二人とも、たいへん好人物です。両者共、私よりも年齢が少し上ですので、北海道から京都に出られたのは昭和30年代でした。学生時代の4年間に、郷里へ戻ったのは1~2度だけだったとお二人とも仰っておられました。当時は費用的にも時間的にも、現在よりもはるかにオオゴトだったはずですね。

そんな思いをして過ごされた京都ですから、懐かしさもひとしおのことと思います。太田さんや高橋和巳氏は、関西のご出身ですから、このあたりの感覚は私達とは少し異なるかもしれませんね。

私は明日から妻と共に、また京都へ出かけます。京都はわずかばかりでもお金を持って、カモになりに行くには最高の場所ですね。でも私のような関東の人間が、あそこで仕事をしてお金を稼ぐのは至難のことに思えます。

またこれからも、よろしくお付き合いください。お世話になります。


http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi

 

Re: 白い送り火

 投稿者:薄氷堂  投稿日:2015年 3月30日(月)21時43分17秒
返信・引用
  > No.96[元記事へ]

>齋藤 恵さん

 いつもコメントをお寄せくださいましてありがとうございます。ほんとうに管理しか
していない不勉強な管理者ではありますが、今後とも当掲示板をご利用くださいますよ
う、よろしくお願い申し上げます。

> 「白い送り火」は、もう2度と再現させてはならないと思います。

 おっしゃるとおりだと思います。このところ自由にものをいいにくい気分が蔓延する
一方で、空疎なことばが飛び交い(よりにもよって八紘一宇とは……)、ひょっとして
21世紀に白い送り火が再現するのではないかとさえ危惧しております。

> 東山如意ヶ嶽の火床に登る道は、けっこう険しい山道で

 如意ヶ嶽は標高472mだそうですが、山は低くても山、あなどれないものですね。私な
どは、京都ではただひとつ瓜生山(標高301m)に登ったきりですが、夏の最中だったせ
いもあり、すっかりへばってしまった覚えがあります。

http://hakuhyodo.txt-nifty.com/smokingroom/

 

白い送り火

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 3月30日(月)20時52分54秒
返信・引用
  京都とはご縁が深かった高橋和巳氏の作品の中に、私の知る限り、毎年8月16日に京都市内で行われる「五山の送り火」のことが出てきた記憶はないのですが、太田さん、いかがでしょうか?

「日本の悪霊」の中で、村瀬狷輔達の一団が、北白川在住の山林地主を襲って強盗殺人を犯した日は、祇園祭りの夜でしたね。五山の送り火の日ではありませんでした。

実は私はあの送り火には、けっこう興味を持っておりまして、火床(ひどこ)を見るために東山如意ヶ嶽に登ったり、長年の間に、いろいろな経験をして参りました。そんな中で偶然見つけたのが、下の写真です。五山の送り火の写真としては見るからに異質ですが、これは、1943年(昭和18年)8月16日朝の「白い大文字」です。たいへんめずらしい記録写真です。これも私の経験だけで恐縮ですが、このことは京都にお住いの方々もほとんどご存じないようです。太田さんはいかがですか?

実は五山の送り火は、太平洋戦争中、1943年(昭和18)年から3年間だけ、京都の夏の夜空から消えたのです。(この点からも戦争は罪深いことでした。)

戦況が悪化してきた1943年、召集されて男手が足りなくなり、空襲に備えた「灯火管制」も厳しくなり、そして何よりも貴重な資源である薪を、そんな目的には使えなくなったため、送り火は中止されました。室町時代中期(14世紀末から15世紀初め)くらいに始まったとされている長い歴史を持った仏教行事を、とうとう続けることができなくなったわけです。

以来、1945年(昭和20年)の敗戦までの3年間は、この送り火は行われず、再開されたのは、1946年(昭和21年)8月16日でした。

送り火に代わって、1943年、44年の2年間、8月16日の朝、如意ヶ嶽に現れたのが「白い送り火」でした。1945年は、敗戦放送の翌日でしたから、さすがにそれもできなかったのです。

昭和18年、19年の2年間だけは、地元の国民学校の児童と一般市民の合計約800人が、白いシャツを着て早朝の火床まで登り、午前7時から、人文字で「大」を描き、ラジオ体操を奉納したのだそうです。当時の新聞の見出しは、「英霊を送る・・・」だったそうで、すべてが戦争へと収斂されていたのです。

「白い送り火」は、もう2度と再現させてはならないと思います。2年間だけ見られた貴重な記録を見つけたものですから、そうした祈りを込めてご紹介させていただきました。

東山如意ヶ嶽の火床に登る道は、けっこう険しい山道で、もう少し若かった私の足で40分かかりました。あの時代、空きっ腹の800人には、さぞかしきつい山登りだったと思います。送り火はやはり、夜やるべきものですね。

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諸君、死なないで呉れ!

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 3月28日(土)19時33分46秒
返信・引用 編集済
  高橋和巳氏は、1931年(昭和6年)の大阪生まれでしたから、敗戦時には14歳でしたね。大阪大空襲のため実家の家屋も工場も焼失し、かろうじて生き残った廃墟の中での体験が、太田さんが度々引用しておられる「褐色の憤怒」の原体験ではなかったかと、私は思っています。

いささか長くなりますので恐縮ですが、以下にご紹介するのは、私の母校の同窓会誌に、10年以上前に掲載された戦中派の卒業生が寄稿された一文です。この方の文章は、なぜか私の心を打つものがあり、捨てられずに切り取って保存しておきました。1944年(昭和19年)に大学に入学された方ですので、今もご健在であれば、もう90歳前後になられると思います。もちろん私はこの方と面識はないのですが、太田さんも憂えておられる現在の日本社会の有り様を考えると、この一文をご紹介させていただきたくなりました。

引用した文章は一部割愛しておりますが、私が付け加えたり、書き変えたりは一切しておりません。ただし文中に登場するお名前だけは、イニシャルにしました。私にとっては凛とした、古典的な言い回しもあります。

『私は昭和19年に入学した者であるが、以下に記すことは、同期の多くが共有する貴重な体験である。

昭和19年10月、戦局は日々我が国に不利に展開、軍官血道をあげての戦意高揚宣伝にも拘わらず、国民に暗い陰をなげかけていた。「撃ちてし止まん」が何時しか「一億玉砕」に変わっていた。

既に通達により、校内での学生の集会が禁止されているようなこの時期に、講堂において本校学生による出征学徒壮行会が開催された。前年度の学徒出陣、徴兵繰り上げによる応召、学徒動員等により、学内の学生数は激減し、校舎は閑散としていた。それでも動員先より作業衣のまま参集した学生も多数見えて、当日は極めて珍しく、講堂の座席は八割方も埋まる盛会であった。

二、三の教授の壮行の辞に続き、Y教授が演壇に立たれて、第一声が力強く放たれた。「諸君、どうか死なないで呉れ!」

一瞬私は自分の耳を疑い、場内は水を打ったような静けさになった。戦場で君国のために死ぬことが、日本男子の最高の名誉と賞賛され、生きて帰るなどとは口が裂けても言えない時にである。教授は続けられた「今や世の中は真におかしくなっている。一億玉砕などと叫ばれ、街には死にたがっている者があふれている。死にたい奴には、死なせたらよい。しかし、諸君には生きていてもらわねば困る。国民が死に絶えた戦勝国など考えられるだろうか? 戦争に勝っても負けても、国家が直ちに必要とするのは諸君なのだ。 生きるためには、前に進めと言われたら、後ろに下がることは考えられぬものだろうか? 右に行けと言われたら、左に行くことは考えられないものだろうか? どうかあと2年、いや時局下2年が無理なら、1年でも何とか生き延びる方法を考えてもらいたい。その時間稼ぎのためには、幹部候補生志願でも何でもよい、ぜひ方法を考えて欲しい。」これだけのことを言われて、教授は降壇された。会場は粛として声もなかった。

学生の答辞はなく、壮行の辞に引き続き、Hさんがピアノを演奏した。そして演奏を終えるや自ら進んで演壇に立ち「本日は思いもよらぬ、こんなすばらしい会にお招きいただき感激しております。 ただ今は戦に向かう若者の情熱を讃えたショパンのポロネーズを演じました。行く日があれば、必ず帰る日もあるはずです。ご凱旋の時には、是非ともまたお招きいただきたい。皆様お健やかに・・・・」と挨拶された。両手を前に固く結び、両眼よりとめどなく溢れ出る涙は、頬を伝って流れ落ちた。

実は当時伝え聞いたところでは、Hさんは初め出征壮行会なら出演しないと固持されたが、ベヒシュタインのピアノ(当時日本に3台しかないと言われたドイツ製の世界的名器)があると聞き、まさかと驚き、それではそのピアノを弾かせて頂くためということで承諾されたとのことであった。当日駅に降り立った彼女は、思わず昔過ごしたウイーンの森を思い出すと言われたことが印象に残った。

中学時代に軍国少年として徹底的な教育を受け、その時1年生だった私にはY教授の壮行の辞は、非常に重大だが、何か聞いてはならない恐ろしいことを聞いてしまった思いであった。翌日には、早速憲兵が来校、壮行会に出席した学生にY教授の話の内容を聞き廻っていた。

その後11月には三鷹の中島飛行機工場が空襲で大きな損害を受け、翌日には腕章も物々しく憲兵が数人学校に現れ、続いて軍人先導で工作機械類がトラックで次々と運び込まれ、講堂は一夜にして軍需工場と化した。そこに置かれていたベヒシュタインも急遽片づけられた。

私はその後まもなく現役応召で満州国境守備部隊に配属され、20年8月ソ連軍の怒濤の侵攻に玉砕隊も出たが、辛うじて生き延び、終戦とともにシベリアに抑留され、炭坑苦役1年半、22年春に復員、母校に復学した。私は国家に必要とされた者だったかどうか、齢80才近くになり、今も生きております。』

この投稿は今から10年以上前になされたものですので、この方が今もご健在なのか否かは不明なのですが、お読みになられていかがでしたか? こんな時代が、わずか70年ほど前の日本には現実にあったのです。忘れてはいけないこと、次の世代に、きちんと伝えていかなければいけないことが、ここにはたしかにあります。

私は母校での4年間に、たいして勉強したわけではありませんが、この文章を読んで、このような文章を書いた先輩と、このようなことをおっしゃった先生のおられた、あの学校で学べて幸せだった、とあらためて思っています。そしてまた、人間の尊厳を否定し、自由な思考を圧殺した、あんな時代は二度と作ってはいけないとも。

太田さん、お互いにハラをくくりましょう。高橋和巳氏は、あの時代で見事なハラのくくり方をされたと思いますが、私などはまったく比較にならないレベルですが、社会がどう動こうと、私の信念は信念とハラをくくっているつもりです。

私の先達の一人、理論社の故・小宮山量平さんが言っておられました。「絶望から希望へ、その知恵はあるにはあるんです。100年後には世の中、少しは進む。そんなふてぶてしさを持つのです。ハラさえ据われば、眼前で起きているすべては喜劇ですから。」

あれだけの出版文筆活動をされた人物の最晩年の言葉です。私のような小心者には大きな励みになります。ご参考までに。


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この「弁士注意」の時代に

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 3月28日(土)14時07分27秒
返信・引用
  春の花の咲き始めとともに、この掲示板も斎藤恵さんの登場で多くの示唆をうけることができ、まことにありがたくおもいます。
実在の教団の歴史や組織論を研鑽された者ならではご高見に敬意を表します。

人間存在の不可避とともに、それが「超国家主義」というものの実体でしょうが、政治権力の“正義”という“幻想装置”におもわずたじろいでいます。

「弁士注意」の拠ってたつ特高のありようについては、それなりに学んでいるつもりですが、こうしていわれてみると、改めてアジア国家主義による情報操作におどろかされるしだいです。

弁士注意! 確かに現在のマスコミ報道に、集団に、会議に、運動に、文化人発言に、重い霧のような幕がおおいつくされているようです。
いや、革新リベラルも、自称文化知識人も骨抜きにされてしまっているようであります。
まさに現今の政治的意図によって一連の“暗黒の人民裁判“が行われてきていることも明らかでしょうし、そこにひたひたと押し寄せる秘密保護法、治安維持法ーー気味わるい足音がひびいてきます。

それにしても「日本的ラディカリズム」とはいったい何であったか。
満州建国のうちにアジア的ユートピアを夢みた「散華」の中津清人のアジ的共栄とは何であったか。
1960年代における反スタ自立論において、高橋和巳はその「破滅による自己確認」と「戦後的知性」でもって、国家権力に吸収されない原初の部分、それこそ文学の問題として果敢に挑戦していったのだとおもわれます。

日本的情念のうちに、「“世なおし”の思想を組織の膨張過程で勢力と妥協することがなければどうなるか」、今、改めて「邪宗門」を紐解きたくなるおもいです。
そして、斎藤さんがおっしゃられる「高橋和巳を読み方」の一つとして、ここに肝に銘じておきます。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

弁士注意!

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 3月25日(水)22時13分31秒
返信・引用
  太田さん、校正モレのことなど、どうぞお気になさらないでください。かくいう私も、しょっちゅう、お詫びしております。

ところで、大本教(本来的には、教をつけないで、大本と言うらしいのですが、一般的には大本教で通っていますので、それに従います。)のことが、「邪宗門」にからんで出て来ましたので、もうちょっとおしゃべりすることをお許しください。

まず以下に少し「邪宗門」からの引用をさせていただきます。

「さが拙く、不具に生まれた我が子に注ぐ母の愛は全世界を睥睨する君主の仁政よりもなお神の心に近い。なぜかなら、つぐないえない苦しみ、とりかえせない時間、やりなおしのきかない命の悲しみをその人は知っているからだ。 お解りか? このことが解らずしては、あなたは宗教家の名に値しない。

私とても国家に正義のあることを望む点においては人後に落ちるものではない。しかし、いかにカイゼルの支配が正義のものになろうとも、償い得ぬ個々の痛みを権力が理解することは決してない。

政治はその本質において治める者と治められる者とからなり、しかも治められる者が辛苦して働き、治める者が治められる者に養われながら、しかも権力を行使するものである。かかるものには一片の正義も与えてはならぬ・・・

「弁士注意!」と声が飛んだ。同時に通路わきに演壇に向って立っていた警官の列が、さっと体の向きを変えて、聴衆の方にひらきなおった。

・・・・・・

国家はその版図内の民に対し、その国民たるを欲すると欲せざるとに拘わらず、義務を課し、租庸調を徴収し、生殺与奪の権を握る。・・・ その運命は人為的、強制的運命であり、われらの宗教の自覚的回心による入信と誓約より、明らかにその次元は下位である。

「弁士注意!」ふたたび警告の声が飛んだ。もう一度注意が繰り返されれば、それは自動的に演説中止に切りかわる。」


以上は、「邪宗門」の中に出てくる1シーンです。邪宗として弾圧を受けた「ひのもと救霊会」教主、行徳仁二郎が、「皇国救世軍」軍父、小窪徳忠と公開討論会を行った際のやりとりの一部です。

もちろんこれは高橋和巳氏の創作であり、モデルとなった大本教の聖師、出口王仁三郎氏がこう言ったわけではありません。

ところで私が卒論で扱ったテーマのひとつは、この中に出てくる「弁士注意!」です。これは誰がどんな権限で言ったものなのでしょうか?

1945年までの日本には、内務省という官僚組織があり、そこが警察の総元締めとして、あらゆる治安関係の取締まりを実行していました。そしてその中の「警保局保安課」というのがその中枢でした。

「特高」などと言っても、きっともうご存じではない方の方が多いでしょうね。「特別高等警察」の略ですが、「特別」に「高等」だって言うのですから、よほど大きな権力と予算を持っていたのだと思います。

この「特高」が内務省警保局の直轄部隊として、全国各地で「弁士注意!」もやれば、大政翼賛に楯をついたり、国を挙げての戦争への道に邪魔になったり、非協力的な人や組織を徹底した暴力でたたきつぶしたのです。最初は革命的な思想に対して、そして次第にまったくリベラルな考え方まで。

大本教は1921年(大正10年)と1935年(昭和10年)の2回にわたって弾圧を受け、ほぼ壊滅しました。教団取りつぶしの起訴罪名は「治安維持法違反」「不敬罪違反」「出版法違反」「新聞紙法違反」でした。

大日本帝国憲法下においては、数多くの宗教団体が弾圧を受けましたが、あの希代の悪法「治安維持法違反」でたたきつぶされたのは、それほど多くはありません。以下は私の卒論からの引用ですが、それは次の6団体のみです。

大本教(S10 京都)
天理本道(S13 大阪)
天理神之口明場所(S13 名古屋)
三理三復元(S13 香川)
天理三輪講(S14 大阪)
日本燈台社(S14 東京、キリスト教系)

ちなみにこの6件の検挙者数は、総計1480人にのぼりますが、その内、大本教関係が987人と圧倒的に多く(ほぼ三分の二)、この悪法を適用された、はじめての宗教団体であると同時に、大本教弾圧の規模の大きさがわかります。

ひとつの見せしめ的な意味合いもあったこの大本教の弾圧の詳細な事情と経過は、拙いながらも私が何十年か前に書いた卒論で何百枚かの原稿用紙をもってしても言い足りなかったくらいでしたから、とうていここで簡単に述べることは不可能ですが、極めて単純化して言えば次のようなことです。

つまり「現人神(あらひとがみ)」を中心として、国民を戦争に総動員していった天皇制ファシズム体制にとっては、神は一人しか要らなかったのです。国を束ね、国民精神を締めつける神がいくつもあっては困るし、そもそもこの種の宗教団体は「現人神思想」と同根なだけに、天皇制ファシズムを民間で支えることもできれば、「現人神」の絶対性を否定するという、両刃の剣になり得る危険性を持っていたのです。

でも私が卒論で強調したかったことは、その件でもありません。

「不敬罪」の最高刑は懲役5年でしたが、「治安維持法」では、それが死刑でした。教団の最高責任者であった聖師、出口王仁三郎は検挙から5年後のS15年に京都地裁での第一審判決で無期懲役を宣告され、以下多くの幹部が10年以上の懲役刑を言い渡されました。

ところが、です。その2年後(S17年)に大阪控訴院で言い渡された控訴審では、王仁三郎のみ懲役5年、他は無罪となりました。つまり、控訴審の時点では、国民を戦争に総動員する側にとっては、大本教など、もうどうでもよくなっていたのです。この記事で私が言いたい点は実はここにあります。

つまり取り締まる側にとって、時代背景が違ったので、叩きつぶす方法も必要性も変わってしまったのです。1935年(S10年)の検挙時点では、日本社会はまだ戦争への総動員の過程にありました。ですから動員する側も、まだ盤石の体制を確立したとは言い難く、数多くの邪魔者が存在していたのです。

ところが控訴審判決の1942年(S17年)には、すでに戦争に突入しており、邪魔者はほぼ処分し終えていました。残ったわずかの怪しげな人間は、徴兵して締め上げ、さらに確実に死ぬ戦線へ優先的に回せば、コトは済んだのです。こうして総動員体制は出来上がり、あとは「欲しがりません、勝つまでは!」で国民精神を締めつけていけたのです。

実際、987名におよぶ大本教側の逮捕者に対して、起訴された者はわずか61名にすぎず、検挙や教団施設のダイナマイトによる徹底した破壊は、明らかに司法的な道筋をたどって行われたのではなく、意識的に教団をつぶすことを目的として、手っ取り早い方法で行われたことは明らかです。

当時、内務省警保局保安課の大本専任事務官だった永野若松はこう言い放っています。(私はたいていの場合、他人の名前を敬称ナシで書くことはしないのですが、こういう人物の場合は、どうしても敬称を付ける気になりませんので、ご容赦ください。)

「裁判は治安維持法で検事局がやるのですが、結社禁止とか建物の破却は別です。たとえそれが無罪であろうと、内務省がこれは許されぬと思ったら独自にやれるのです。内務省は内務省の考えで行政処分でやれる。司法の判断を、待つ必要はない・・・」

これが「特高」の元締めの考え方でした。チェックされることのない権力を持った組織が不可避的に陥る傲慢さです。無制限な拡大解釈という・・・。

千名近い関係者を逮捕しながら、そのほとんどは送検もせずに、暴力で脅して屈服させ、建物を壊し、淫祠邪教のイメージを社会に振り撒き、裁判など待たずして教団を消滅させてしまったのです。

そう言えば最高刑が死刑であった「治安維持法」を適用されて、死刑判決を受けた者は日本の歴史上ひとりもいませんでしたね。そんな手間をかける必要がなかったのです。逮捕後の留置中の暴力で、いったいどのくらい大勢の良心を持った人達が直接・間接に殺されたことでしょうか。また、徴兵されて極限の暴力の中、有無を言う間もなく、無念の中に死んでいかざるを得なかった人達がどのくらいいたことでしょうか。

この記事は何よりも<自由>を尊ぶ私が、歴史を少し誇張して書いているわけでは決してありません。たった80年ほど前にこの国で現実に起こったことを史実にもとづいて、できるだけ冷静に書いているだけなのです。現政権を筆頭に、多くの歴史歪曲的、国粋主義的、暴力的主張がまかり通り始めている現状を見て、つい一言申し上げたくなりました。実は今から半世紀近く前に書かれた高橋和巳氏の作品からも、私と同様な危機感を強く感じるのです。

もし不運にも私が1930年代の日本に生まれ合わせていたとしたら、まず間違いなく生きてはおられなかったと、私はある自負を持って確信していますが、言うまでもなく高橋氏もそうであったと思います。

今の時代に高橋和巳氏を読むのには、こういう読み方もあってよいのではと、ひそかに思っておりますので、あえて書かせていただきました。もしも掲示板の趣旨から逸脱しておりましたら、どうかお許しください。

http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi

 

誤植、お詫び。

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 3月24日(火)06時55分3秒
返信・引用
  この掲示板で3月22日発信の私の文章に誤植あり、以下に訂正いたします。

文章半ばの「破壊工作ががかさって」→「破壊工作がかさなって」
1番下の「超国主主義」→「超国家主義」

斎藤恵さん、慎んでお詫びします。
もともと校正力がなく、いつも身の不覚を恥じております。

 

感謝しております。

 投稿者:齋藤 恵  投稿日:2015年 3月23日(月)12時08分48秒
返信・引用 編集済
  太田さん、齋藤 恵 です。

「邪宗門を真正面から持ち出して」しまい、太田さんには、おつらい思いをさせてしまったかなと、いささか申し訳なく存じております。

でも高橋和巳氏の没後40年以上経った現在でも、こうした掲示板を主宰しておられる太田さんは、本当に誠実な方だとお見受けしています。氏のお連れ合いでおられた、高橋たか子さんが後年こんなふうに書いておられましたが、まったくその通りだと思います。

「一言、その人の名誉のために言っておくが、太田代志朗君だけは、利心なく、ひたすら和巳を尊敬する、純朴な文学青年だった」(高橋たか子著「高橋和巳という人-二十五年の後に」河出書房新社)

また、

> 吉本隆明が「大衆向きのインテリ小説だ」なんていってから文壇的におかしくなり、また文芸評論家もまともに向き合わなかった不幸な状況があります。

とのことで、これは高橋氏の身近におられた太田さんだからご存じのことと思いますが、私に関して言えば、吉本隆明氏が「邪宗門」をどう評価しようと、どうでもよいことに思えます。ちなみに、吉本氏の作品は私も何点か読んだことがありますが、まったく心に響いてくることはありませんでした。その意味では、高橋和巳氏の存在は私にとっては今でも大きいのです。吉本氏の比ではありません。今回のご縁で、このような場を知ることができたことを、あらためて感謝しております。

1960~70年代に「戦後民主主義の虚妄」が様々な立場の人々から言い出されましたね。「戦後の進歩的知識人」への痛烈な批判も起きました。でも、天皇絶対主義国家への反省をもとに行動してきた「戦後の進歩的知識人」の中心的な存在の一人であった、故、丸山眞男氏が、当時その風潮に対して、「戦前の『現実』と、戦後民主主義の『虚妄』との間でどちらを選ぶかと言われれば、私は後者に賭ける。」と言い切っておられました。実は私の立ち位置は、当時も今もまったく不動でして、丸山眞男氏のこの視点に深く共感する立場なのです。

ささやかな立場で、しかも極めて弱い立場ではありますが、私は生ある限り、この気持を受け継いでいこうと思っています。

ご縁あって、こうした対話の場をいただいたことに感謝し、これからも皆様の投稿を読ませていただき、たまには私も書かせていただきます。よろしくお願いいたします。


http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi

 

「邪宗門」のかなたへ

 投稿者:太田代志朗  投稿日:2015年 3月22日(日)21時03分54秒
返信・引用
  「邪宗門」のことをお書きくださり、改めて深く瞑目しております。
封殺された高橋和巳の幻野がゆらぎます。

その後の身すぎ世すぎを経てきて、今ここに「邪宗門」を真正面から持ち出されると、私もまた引き裂かれてゆくようなおもいにかられます。

雪を食うたとて腹さふくれぬ・・、
濃霧(ガス)ば吸うたとて浄土にゃ行けぬ・・、
泣ぐな泣ぐな・・。

「捨子物語」の主人公の後年を飢餓の村から生き延びてきた千葉潔に託し、まさに「邪宗門」は国家・思想・宗教が本来的にかかえたルサンチマンを明らかにしようとしたもののようにおもわれる(これは拙論「高橋和巳序説」でも、まだ追究できえないでいるテーマの一つです)。

一つ一つの情景、ひのもと救霊会ーー大本教の弾圧、暴動、破壊工作ががかさっていきます。
そこには高橋和巳の戦後的ジレンマがあり、当時の大衆文化や進歩的文化人という輩への反批判があったともおもわれます。

あれは吉本隆明が「大衆向きのインテリ小説だ」なんていってから文壇的におかしくなり、また文芸評論家もまともに向き合わなかった不幸な状況があります。
戦後的ラディカリズムに葛藤していた高橋和巳は、常にイデオロギーの虚妄性を衝いていたのですが。

「朝日ジャーナル」から何枚書いてもいいといわれ、好調に2000枚をなしたとはいえ、なぜかその直後から高橋和巳は不機嫌になっていったのですね。

 最も絶望的な詩、そは最も美しき詩
  最も苦悩せる死、そは最も美しき死

それにしても、斎藤さんが亀岡の本部に「卒論の資料集めに」寄宿。
そこでじかに次期教組や資料室の幹部に会ったご体験をもつことに驚き、またそれは凄い体験であったとおもいます。

高橋和巳も2、3度訪れていた亀岡の聖地。
機会あらば是非、その「立て直しから超国主主義へ」は拝読したいものです。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

 

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