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 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 8月20日(土)23時52分56秒
  ムジカおさらぎのホームページ「演奏会のお知らせ」に
「第52回鎌倉合唱連盟定期演奏会」の報告を載せました。

ここをクリックして、トップページから「演奏会のお知らせ」をご覧ください。
 

Rio 五輪とブラジル音楽

 投稿者:ヘ音記号  投稿日:2016年 8月16日(火)17時51分46秒
  今まさに、リオ オリンピックの熱戦が展開中。朝から晩までTVの前から離れられない。日本選手の大活躍に声援を送っている。なかでも、水泳、体操、柔道選手の奮闘は称賛される。残る種目の健闘にも期待がかかる。

そんなブラジルの音楽といえば、すぐに思い浮かぶのが、リオのカーニバルで踊られるサンバのリズムであろう。それに、古くから歌われていた民族的な舞曲ともいえるショーロスのメロディーがある。また、ブラジル風なタンゴには、アルゼンチンタンゴにない郷愁を覚える。それらがギターや民族楽器の演奏によって盛んに伝えられてきた。

ついでに、ご紹介したいブラジルの作曲家がある。たぶんご存知の方も多いと思われるが、最も有名な人、ヘイトール ヴィラロボスについて、少し解説したい。Hitor Villa=Lobos(1887.3.5~1959.11.17) はリオデジャネイロ生まれの20世紀前半に活躍した作曲家である。よく知られている作品はブラジル風バッハというタイトルの9曲。題名の通り、バッハの語法をブラジル風に取り入れた組曲である。9曲それぞれに使用楽器は様々で、チェロ7台のものもあれば、ソプラノのアリア入りもあれば、ピアノソロの曲もある。珍しいところでは無伴奏合唱曲もある。このようにヴィラロボスは多彩で、多作の作曲家であった。それに当然ブラジルらしく、ショーロス(民族的舞曲風セレナード) の14曲も重要な作品である。なかでも、10番の曲は、合唱とオーケストラの作品である。

これ以外にも、交響曲12曲。バレエ音楽4曲。協奏曲5曲。弦楽四重奏曲17曲。ピアノ曲やギター曲多数が上げられる。変わったところでは、ハーモニカ協奏曲などまで作られている。

次いで知られている作曲家として、エルネスト ナザレー(1863.3.20~1934.2.4)もあげておきたい。この人はブラジルのショパンと評価された作曲家であり、ピアニストでもあった。したがってピアノ曲がよく知られている。やはりリオデジャネイロ生まれである。オデオン(タンゴブラジレイロ)が有名で、他にもワルツ風な曲を多数作曲している。

以上二人は私の好きな作曲家であるため、少し詳しく書かせてもらいました。オリンピックで活躍している選手たちに免じてお許しください。youtubeの動画を探していたら、ベルリンフィルの野外コンサートで演奏している「ブラジル風バッハ5番」の曲が見つかったので下にURLを記しておきます。
  youtube.com/watch?v=Y1rMJ_ixOFA (7'03")
 

納涼のお誘い

 投稿者:シブスト  投稿日:2016年 8月13日(土)11時23分21秒
  外の撮影は暑いので、涼しさを求めて、新江ノ島水族館に撮影に行きました。童心に返って海の中の素晴らしさに引き込まれました。写真で少しでも涼しさのお裾分けが出来れば幸いです。  

わが思いの深き宿の数々

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 8月12日(金)16時31分43秒
   私の長い半生の中で、内外にわたり重ねた旅ごとに泊まった宿の中から特に印象深いものを抽出し、以下に順を追って述べてみたいと思います。

Ⅰ 三瓶(さんべ)温泉の宿〈島根県〉
  これは古く昭和18年5月、私ら県下の浜田にあった歩兵部隊が中国に派遣される直前のこと。それに備えて最後の演習を行うため、かなり高い三瓶山の頂上で実施すべく、山頂にあった温泉宿に二泊した。連日の猛演習に大汗を流し疲労困憊した後に入った、大きな浴槽に溢れ出る温泉で久方ぶりのゆったりし気分に浸った。そのあとは言わずと知れた山海の珍味に舌皷を打ちながらの、飲めや歌えの大宴会となった。

Ⅱ 霧積(きりずみ)温泉の宿〈群馬県〉
  昭和35年頃、職場の仲間10数名で訪れたが、最寄りの駅から山道を歩くこと3時間余で到達した、当時電気はなくランプの宿。人気絶大の宿で、目一杯予約を受けるため、寝るときは一騒動。まさに「鰮(いわし)の缶詰」状態で、頭と足を互い違いに横になったことが今なお生々しい記憶となっている。

Ⅲ ミラノのホテル〈イタリア〉
  平成7-8年の頃。私の勤務先の会社の輸出係として、ヨーロッパに点在する代理店一巡の出張の中の一つ。折悪しく市中は恒例のファッションショーの時期と重なり、市内のホテルは満杯。やむなく泊まったのが、郊外の正に田園の真っただ中に建つ木造二階建てのホテル。窓のすぐ下には清流が流れ、はるかに水車が廻っているのが望見された。めったに味わえない風情が特に印象に残っている。

Ⅳ コペンハーゲンのホテル(デンマーク)
  これもミラノ同様出張の折の宿。その名もふさわしく「アドミラル〈海軍の提督〉ホテル」といい、港の直近に位置し、そのロビーには船舶の大きな碇など船の備品が飾られていた。付近の掘割には大小様々な帆船が舷々相摩し停泊していた。その昔海賊の民族として名をとどろかせた面影をしのばせた。また近くの海岸には有名なマーメイド〈人魚姫〉の小さな像が岩の上に鎮座していた。その傍らをジョッギングしたのも覚えている。

Ⅴ 三斗小屋温泉の宿〈栃木県〉
  私がリタイヤー後加入した「鎌倉山歩き同好会」の山旅の折泊まった宿。平成10年頃、茶臼山〈那須連山の一つ〉登山の下りのコースから進路を急変、折から真っ盛りの紅葉の山道を歩くことほぼ3時間にして到着した山中の一軒宿。自家発電なるも9時消灯、以後ランプという素朴な宿で、食膳にはヤマメとか山菜など山の物がにぎわしていた。温泉の名の由来は米を牛が運ぶのだが、険しい山道の故一回三斗が限界であるとの、いかにも山の中の温泉にふさわしい名称である。

Ⅵ 乳頭温泉の宿〈秋田県〉
  これも山歩き同好会の催しの一つとして、上記のものと前後して行われた、秋田駒ケ岳登山後宿泊した宿。各種温泉が揃っている中で、最も人気の高いのは、湯煙で向こう岸がかすんで見えないくらい広大な、かつ足下には大きな石がゴロゴロ転がっている。あたりには真紅の紅葉と枯れすすきが風に揺れる、混浴の露天風呂。夜にはランプの光が湯面にきらめく風情はまさに野趣横溢といったところ。一年前から予約満杯との話もむべなるかなである。

番外編 天長城内の兵舎〈中国〉
   上記Ⅰ に記した中国派遣部隊が最初に駐屯したのが,安徽省の天長県の県庁所在地に鎮座する巨大な城壁に囲まれたのが天長であった。その市街地の奥に元県庁々舎と思しき非常に丈高き木造二階建ての建物があり、私は中隊本部の情報係として2階の一室があてがわれた。
  その30メートルは優にあると思われる高き屋上に展望台が設けられ、歩哨が交替で勤務する。遥か城外の田園風景を眺める時、どこに戦争があるのかという平和でのんびりした気分にひたされた。

以上一寸長くなりましたが、思い出すままに申し述べた次第であります。





 

『お笑い』おすそ分け(18才と81才の比較コント集)

 投稿者:島田直彦  投稿日:2016年 8月11日(木)22時57分35秒
  ① 道路を暴走するのが18才、逆走するのが81才。
② 心がもろいのが18才、骨がもろいのが81才。
③ 偏差値が気になるのが18才、血糖値が気になるのが81才。
④ 受験戦争を戦っているのが18才、アメリカと銃後で戦ったのが81才。
⑤ 恋に溺れるのが18才、風呂に溺れるのが81才。
⑥ まだ何も知らないのが18才、もう何も覚えていないのが81才。
⑦ 欲しいものを買ってもらえたのが18才、「欲しがりません勝つまでは」と教えられたのが81才。
⑧ 東京オリンピックに出たいと思うのが18才、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81才。
⑨ 自分探しの旅をしているのが18才、出かけたまま分からなくなって、皆が探しているのが81才。
⑩「嵐」というと松本潤を思い出すのが18才、鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出すのが81才。
⑪ スマホを手放せないのが18才、スマホ難民なのが81才。
⑫ 「就活」に関心があるのが18才、「終活」に関心があるのが81才。
⑬ 夢に向かってチャレンジするのが18才、筋力アップにチャレンジするのが81才。
 

合唱連盟定演の講評

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 8月 1日(月)13時32分13秒
  ムジカおさらぎの演奏について、お二人の先生の講評を掲載します。

1.講評者  桑原妙子先生

 まず オン ステの素晴しさ! よくぞ これだけのメンバーが...と ただ ただ感心するばかり。
 そして そして なんと若々しい歌声、リズム、躍動感 etc.
 今日 ここにいられて この演奏を拝聴できるしあわせに感謝しています。
 特にHun.のフレーズいいですね。
 2曲目は特にその風景が空気となってホールいっぱいに広がり ただ幸福感包まれました。ますますのご発展を!

 4月にみなとみらい大ホールで開催されている国際シニア合唱祭ゴールデンウェブに参加なさいませんか?詳細はHPで。


2.講評者 中村義春先生

 これ程の多人数の人々が心を一つにして歌う姿は素晴らしいですね。日本中がこう在ってほしいと思う姿です。
 多くの人が心を合わせて歌う事自体素晴らしいのにその人々が美しいものに向かう姿に感動を覚えます。
 男も女もなく、唯美しく在りたいと思う一点で心を合わせる事の素晴らしさが聞こえて来る歌でした。
 是非、明日に向かって元気で頑張って下さい。


 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月30日(土)10時21分54秒
  募金のゆくえ を更新しました。
去る、7月15日の募金贈呈式の模様を掲載し、これまでの募金総額が1400万円を超えたことをお伝えしています。

http://musica-osaragi.jp/Bokin-w/index.html

 

我流認知症対策

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 7月28日(木)14時00分36秒
    実は私の身近にもかなり重症の認知症患者がいたので、その怖さを身に染みて知っているだけに、私自身もその対策に大いに意を用いております。

  まず第一に、何らかの形で世間とのつながりを保つこと。例えば趣味の会に加入して仲間と交流をはかること、また町内会、自治会に役員として参加すること、さらにボランティアで内外の団体で活躍するなどが挙げられる。

  また読書を趣味とする、随筆など作文に意を注ぐ、楽器の演奏を楽しむ、友人や家族との会話、映画鑑賞や旅行などから得られる刺激や感動も脳の活性化に大いに役立つともいわれている。

  その他自習法として「音読筆写」といって、一つの文章を声を出しながら読み、それを紙面に書き写す方法。また「数独」というかなりの人が挑戦している好適な方法があるが、私は実行していないので詳細不明。さらに1ページに数10の加減乗除〈足し算、引き算、掛け算、割り算)のごく簡単な数式が羅列されていて、それらをかなり厳しい制限時間内に算出するよう求められている方式もある。

  いずれの方法にしてもそれらを解説、説明する書籍は書店にあふれんばかりに揃っていると推測する。

  以上申し述べた諸対策の中から、各自自分に適したと思われる方法を選択し、認知症予防に努められたらいかがと思う次第であります。

追記:上記文章は私が所属する厚生年金組合に投稿したものです。
 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月27日(水)22時13分47秒
編集済
  歌のサロンのページを更新しました。

7月のゲスト

トロンボーン演奏:佐々木匡史さん、ピアノ演奏:矢島吹渉樹さん

楽しい歌のサロンの様子は、アルバム・スライドショー・動画でご覧になれます。

ココをクリックしてお楽しみください。


http://

 

鎌倉のチベット

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 7月15日(金)13時14分47秒
    先頃読んだ、著者は銀行の常務など勤め、定年後趣味が高じて随筆集を出すようになり、その一つが「鎌倉つれづれ」という本で、掲題はその一章である。なお著者は新しい団地ができると同時に鎌倉に移住したという。その内容に興味を覚えたので以下にご紹介します。

  鎌倉に居を構えてからすでに二十数年になる。東京までの通勤は乗り換えなしで行けるし、また自然が残されていて、それなりに気に入っている。しかしこのカマクラという名前がとかく厄介なのである。

  ずいぶん昔のことになるが、ある公団のエライさんに住まいのことを訊かれ、何気なく鎌倉と答えたところ、さらに詳しく尋ねられ、住所を告げた。すると
  「そんなところは軽々しく鎌倉というな。鎌倉とは扇ガ谷や雪ノ下、小町のような昔からの街を言うのだ。今後気を付けたまえ」
  と叱られてしまった。実は彼の実家は旧市内にありそれが自慢である、と後に知った。もっとも彼の言い分も一理ないわけではない。たしかにわが住まいは昭和四十年代に、自然を破壊して造成した新興住宅地であり、そんなところに住みついたやからと一緒にされたくはないだろう。彼らの言う鎌倉は小津安二郎の世界のような、ゆったりとしたたたずまいの、いわゆる古都鎌倉なのである。

  そんなことがあってから、住まいを訊かれるときには、答え方を使い分けている。関東以外の人にはすんなりと鎌倉と答える。それが一番わかりやすいからである。しかし東京や横浜の人で鎌倉を多少なりとも知っていそうな人には用心して答える。
  「JRの大船から少し入ったところです」先方は興味なさそうに「あっ、そう」大抵はそれでおしまいである。たまによりくわしく尋ねられると、古都鎌倉を連想されないように気を使う。一時は「駅から遠い、ずーっと山の中の、鎌倉の岩手県です」
と答えていたが、岩手の人に叱られるとまずいので、最近は
  「鎌倉のチベットです」と答えることにしている。これならあんまり差し障りはなさそうだ。〈以下省略〉

追記:本文から推測するに、著者の住まいはあるいは今泉台団地かとも思われる。もしそうならそれに関連して面白い話を聞いているのでご披露してみます。
  団地完成の暁、地名の決定に住民一同協議の上、団地の位置が北鎌倉の真上の小高い岡にあることから「北鎌倉台」と衆議一決したという。ところがそれを聞いた古くから北鎌倉に住む住民一同が、この本の記事にあるエライさんからお叱りを受けたように「どこから来たか分からない新参者が、この由緒ある北鎌倉を名乗るとは不届き千番」と猛烈な反対運動を展開したため、新団地一同もやむなくそれに屈したという。今でもバス停の一つに「北鎌倉台」というのがあり、僅かに溜飲を下げているやに哀れを催される。

余談:この随筆を読んでいて、面白い符合に気づいた。
  というのは以前読んだ別の随筆家の作品中に全く同じような情景が描写されていたからである。二人とも同じ団地の同じ地域に住んでいて、同じバス停を利用していたようだ。両人揃って東京に勤務していたという。
  その状況というのは、帰途雨に降られて、大船駅前から乗ったバスの中から自宅へ「今白山神社の前を通過中だが、半僧坊下のバス停まで傘を持って来て貰えないんだだろうか」と奥さんに電話したという。


 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月 8日(金)23時28分22秒
  ムジカおさらぎのホームページ「演奏会のお知らせ」に
「第33回鎌倉生涯学習センターフェスティバル」の報告と
「第52回鎌倉合唱連盟定期演奏会」のお知らせを載せました。

ここをクリックしてトップページを開いて、「演奏会のお知らせ」を
ご覧ください。
 

更新しました。

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 6月29日(水)14時39分17秒
  歌のサロンを更新しました。
6月の歌のサロンは、ファゴット奏者をお招きしました。
あまりおなじみでない、ファゴットの演奏を動画でお楽しみください。
ピアノ演奏は高須亜紀子さんで、4月30日「ムジカおさらぎ定期演奏会」で
演奏された「春の歌」「ヴェネツィアのゴンドラのうた」を動画でおたのいみください
ココをクリックしてご覧になれます。
 

「麦秋(ばくしゅう)や大平原を遅々と兵」

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 6月25日(土)09時04分21秒
    標題は昭和19年5月半ばから6月末にかけて、京漢作戦と称する作戦に従事した時の一つの情景を最近詠んだ拙ない俳句です。麦秋とは歳時記によると、「麦が熟したこと、またその頃の季節をいう」となっております。

  中部中国に駐屯中のわが中隊にも上記作戦に参加せよとの命を受けて、5月半ば北部に移動。諸備品を受領後20数キロの重装備を担っての行軍が開始された。

  数日後黄河に差しかかったが、そこには非常に頑丈そうな鉄橋〈わが工兵隊の建造とか〉を、米軍機の来襲を避けるため半ば駆け足で渡るよう命ぜられた。見ると橋の半ば辺に高射機関銃隊が配備されていた。約1時間かけて渡ったが、下を見ると大黄河が濁流をとうとうと流していた。

  渡河2-3日後物凄い黄砂に見舞われ視界まさに数メートル。全身真っ黄色になってその日の行軍を終えたが、銃器の手入れに大変な手数を煩わされた。音に聞いた「黄塵万丈」という言葉が実感となって身に迫った。

  その後は平穏の中に行軍中ある夕刻、城壁に立て籠もる敵兵から突如猛烈な銃撃を受け、すわとばかりに展開して応戦。敵からのすさまじい攻撃に前進もはかどらない。夜を徹しての応戦にさすがの敵も浮足立ち、薄明に至り漸く制圧。敵城頭に日章旗が翻った。その朝路傍に負傷兵が衛生兵に手当てされる姿が多数見受けられた。

  以後何事もなく、掲題に記されたように、折から黄色く実った麦畑の中を明けても暮れても行軍することになった。単調な行軍を続ける中、はるか彼方にうっそうと繁った森が見えてきた。それが部落で数10軒の民家が群集し、広場には井戸がある。兵隊は競って喉を潤し、水筒に補給する。いわば砂漠の中のオアシスといったところである。ほぼ1カ月の行軍の最終局面にはるかに小高い山が見えたというくらい、中国大陸の広大無辺なる大地の姿を改めて認識することになった。

  さて表題の俳句の話になるが、あの句は私の勝手な想像で,よくいわれる鳥瞰図というか、はるかの上空からわが行軍を眺めた時、兵隊たちは懸命に歩いているかもしれないが、あまりに広い平野を歩いているため、「遅々」という表現がピタリと当てはまるのではないかと自賛している。

  以上当時を懐かしく振り返りながら記した次第であります。

余談:たわむれに詠んだ拙句

      自動銃対三八〈サンパチ〉銃や敗戦忌

  戦後偶々出会った中国正規兵を見てビックリ。皆米軍支給らしき迷彩服着用、自動小銃を携えているではないか。それにひきかえわが陸軍は依然として明治38年制式の単発銃。まともに撃ち合ったらひとたまりもないと、大いに怖けづいた。事実前線から帰って来た兵隊が「完全な負けいくさよ」と口々に自嘲的に叫んでいた。


 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 6月20日(月)00時07分18秒
  ムジカおさらぎのホームページ「演奏会のお知らせ」に
「第28回定期演奏会」の報告と「鎌倉生涯学習センターフェスティバル」の
お知らせを載せました。

ここをクリックして、トップページから「演奏会のお知らせ」を
ご覧ください。
 

中伊豆の渓谷

 投稿者:シブスト  投稿日:2016年 6月12日(日)23時27分23秒
  鎌倉から車で2時間半で行ける中伊豆に素晴らしい渓谷があります。新緑と渓流を撮りに行ってきました。秋には紅葉に彩られまた違った景色を楽しめます。  

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 6月 7日(火)10時49分56秒
編集済
  5月歌のサロンのページを更新しました。

ここをクリックしてご覧ください。

歌曲集「美しき水車小屋の娘」特集です。



 

初夏の信州

 投稿者:シブスト  投稿日:2016年 6月 5日(日)23時06分49秒
編集済
  霧ヶ峰高原とその近くにある真田氏の領地小県郡(上田市北方)で新緑、滝、渓流、レンゲツツジ、爽やかな高原風景などを撮影してきました。季節が例年より早く進んでいたが、梅雨前の良い時期で、レンゲツツジも早目に咲き出していました。
上の写真は、新緑の巣栗渓谷。中は不動滝、下の写真は霧ヶ峰のレンゲツツジと美しい雲です。
下記のURLをクリックしてブログもご覧下さい。

http://tnk125.blog.fc2.com/

 

わが幼年期を回想して

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 5月23日(月)13時27分31秒
編集済
    時代は昭和初期のこと。90年近くなる昔のこととて、おぼろな記憶をたどりながらつづって参りたいと存じます。

  当時の住居は横浜市南部にある、古刹弘明寺観音を間近かに控えた大橋町という一角にあった。

  市電の終点弘明寺から市の中心部に向け市電が走行していたが、その市電通りから3ブロック入ったところにわが家があった。前のブロックには銭湯があり白い煙が立ち上っていた。また弘明寺寄りの次のブロックには大きな市設市場があって、日用品の買い物に利用していた。また私ら兄弟姉妹が通学していた大岡小学校はすぐ近くに、当時からコンクリート3階建ての威容を誇っていた。わが家の前には幅広い砂利敷きの道路があり、仲間と共に野球に興じていた。当時の物資の輸送、引っ越しも含め、まだトラックの少ない時代で、専ら牛馬車に頼っていた。そのため道路にはそれらの糞が散乱していた。また牛馬のための飲水所が弘明寺終点の近くにあった。

  今なお鮮明に記憶しているが、わが家のすぐ前の家の息子が陸軍に入隊するとかで、父親が土建の親方の関係から、寄贈された幟旗が何十本も風にはためいてた光景が忘れられない。また数軒先に天理教の教場があり、信者が輪になって団扇太皷を鳴らしつつ「悪しきを払うて助け給え天理王の命(みこと)」と歌いながら踊っていたのも思い出す。

  当時京浜電鉄敷設中で、私らはよく弘明寺駅付近まで見物にいったものである。砂利など運搬する工作車もしきりに走っていた。

  また市電が祝日に花電車といって、骨組みだけ残した車体に、色とりどりの電球を満艦飾の如く飾り付けた電車を何両も連ねて市中を巡回し、子供らを楽しませていた。

  ある冬の深夜、上記の市場から出火、その炎の凄まじさに歯の根も合わなく身震いしたこともよく覚えている。

  また夏の夕方、大岡川の上空を覆わんばかりに「銀ちょうやんま」という色鮮やかの大型のトンボが襲来したり,潮の加減か「オボコ」といってボラの子が川の水をうずめんばかりに遡上してきて、手網やバケツなど持って大騒ぎしたこともあった。

  当時朝夕独特なラッパを吹きながら豆腐売り、振鈴を鳴らしながら納豆売り、ほかに玄米パン売りなど往来していた。

  最後に、夏休みに故郷の松江に帰省する親父のお伴に弟も一緒、東海道線を京都で山陰線に乗り換えたが、ほどなく余部(あまるべ)という日本一高い鉄橋に差しかかり、その高さに肝を冷やした。また山陰線にはトンネルがやたらに多く、当時の列車は蒸気機関車で煤煙をまき散らしながら走っていた。その煤煙が車内に入るのを防ぐため、トンネルの直前に窓閉めなければならず、窓の開け閉めに大忙しだった。

  また訪れた松江城の堂々としたそのたたずまいに感嘆大なるものがあり、先祖がこの城に出入りしていたことに思いをはせる時一寸誇らしい気分になった。

  以上長々と脈絡もなく思いつくまま申し述べた次第であります。










 

シェルブールの中のカタカナの意味

 投稿者:肖像君  投稿日:2016年 5月14日(土)13時09分27秒
  3ページ オーモナムールは「私の恋人」「私の愛する人」7ページ オージュテームはフランス語「愛しています。わかっておられる方が多いと思いますが、私はわからなかったので、パソコンで調べてみました。
 

シェルブールの雨傘

 投稿者:肖像君  投稿日:2016年 5月14日(土)12時56分11秒
  監督、ジャック・ドウミ、音楽 ミシェル・ル・グランのミュージカル映画に出てくる音楽です。この映画は、1964年、第17回カンヌ国際映画祭でグランプリをとった映画です。内容 第1部 アルジェリア戦争の最中、フランスの港町シェルブールにギイという20歳の自動車整備工と17歳のジュヌヴィーヴは、恋人同士であった。ギイは病身の伯母エリーズとジュヌヴィーヴはシェルブールで傘店を営んでいた母エリーズと暮らしていた。将来の事を語り合って幸せだったがギイに召集令状がきて、2年間兵役につく事になった。その日、二人は結ばれ、ギイは、幼なじみのマドレーヌに伯母の世話を頼み入営した。第2部莫大な納税に苦しむ伯母は、宝石を売って納税に充てようとしたが、なかなか売れない。そこへあらわれた、ローラン・カサールが、宝石を買い取ってくれた。ローランは、前からジュヌヴィーヴを見初めており,ギイを待ちきれなくなったジュヌヴィーヴはローランと結婚してしまう。第3部足を怪我して除隊になったギイはすべてを知って自暴自棄になり、酒におぼれる乱れた生活におちいる。やがて幼なじみのマドレーヌの励ましに立ち直りマドレーヌと結婚し、ガソリンスタンドも順調にいく。第4部 時は流れ、或る雪の夜、ガソリンスタンドに給油のため、1台の車が停まる。その運転席には、あのジュヌヴィーヴと子供が乗っていた。ジュヌヴィーヴのまたあいたいという誘いを断り、ギイはマドレーヌと幸せにくらした
 

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