投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月30日(土)10時21分54秒
  募金のゆくえ を更新しました。
去る、7月15日の募金贈呈式の模様を掲載し、これまでの募金総額が1400万円を超えたことをお伝えしています。

http://musica-osaragi.jp/Bokin-w/index.html

 

我流認知症対策

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 7月28日(木)14時00分36秒
    実は私の身近にもかなり重症の認知症患者がいたので、その怖さを身に染みて知っているだけに、私自身もその対策に大いに意を用いております。

  まず第一に、何らかの形で世間とのつながりを保つこと。例えば趣味の会に加入して仲間と交流をはかること、また町内会、自治会に役員として参加すること、さらにボランティアで内外の団体で活躍するなどが挙げられる。

  また読書を趣味とする、随筆など作文に意を注ぐ、楽器の演奏を楽しむ、友人や家族との会話、映画鑑賞や旅行などから得られる刺激や感動も脳の活性化に大いに役立つともいわれている。

  その他自習法として「音読筆写」といって、一つの文章を声を出しながら読み、それを紙面に書き写す方法。また「数独」というかなりの人が挑戦している好適な方法があるが、私は実行していないので詳細不明。さらに1ページに数10の加減乗除〈足し算、引き算、掛け算、割り算)のごく簡単な数式が羅列されていて、それらをかなり厳しい制限時間内に算出するよう求められている方式もある。

  いずれの方法にしてもそれらを解説、説明する書籍は書店にあふれんばかりに揃っていると推測する。

  以上申し述べた諸対策の中から、各自自分に適したと思われる方法を選択し、認知症予防に努められたらいかがと思う次第であります。

追記:上記文章は私が所属する厚生年金組合に投稿したものです。
 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月27日(水)22時13分47秒
編集済
  歌のサロンのページを更新しました。

7月のゲスト

トロンボーン演奏:佐々木匡史さん、ピアノ演奏:矢島吹渉樹さん

楽しい歌のサロンの様子は、アルバム・スライドショー・動画でご覧になれます。

ココをクリックしてお楽しみください。


http://

 

鎌倉のチベット

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 7月15日(金)13時14分47秒
    先頃読んだ、著者は銀行の常務など勤め、定年後趣味が高じて随筆集を出すようになり、その一つが「鎌倉つれづれ」という本で、掲題はその一章である。なお著者は新しい団地ができると同時に鎌倉に移住したという。その内容に興味を覚えたので以下にご紹介します。

  鎌倉に居を構えてからすでに二十数年になる。東京までの通勤は乗り換えなしで行けるし、また自然が残されていて、それなりに気に入っている。しかしこのカマクラという名前がとかく厄介なのである。

  ずいぶん昔のことになるが、ある公団のエライさんに住まいのことを訊かれ、何気なく鎌倉と答えたところ、さらに詳しく尋ねられ、住所を告げた。すると
  「そんなところは軽々しく鎌倉というな。鎌倉とは扇ガ谷や雪ノ下、小町のような昔からの街を言うのだ。今後気を付けたまえ」
  と叱られてしまった。実は彼の実家は旧市内にありそれが自慢である、と後に知った。もっとも彼の言い分も一理ないわけではない。たしかにわが住まいは昭和四十年代に、自然を破壊して造成した新興住宅地であり、そんなところに住みついたやからと一緒にされたくはないだろう。彼らの言う鎌倉は小津安二郎の世界のような、ゆったりとしたたたずまいの、いわゆる古都鎌倉なのである。

  そんなことがあってから、住まいを訊かれるときには、答え方を使い分けている。関東以外の人にはすんなりと鎌倉と答える。それが一番わかりやすいからである。しかし東京や横浜の人で鎌倉を多少なりとも知っていそうな人には用心して答える。
  「JRの大船から少し入ったところです」先方は興味なさそうに「あっ、そう」大抵はそれでおしまいである。たまによりくわしく尋ねられると、古都鎌倉を連想されないように気を使う。一時は「駅から遠い、ずーっと山の中の、鎌倉の岩手県です」
と答えていたが、岩手の人に叱られるとまずいので、最近は
  「鎌倉のチベットです」と答えることにしている。これならあんまり差し障りはなさそうだ。〈以下省略〉

追記:本文から推測するに、著者の住まいはあるいは今泉台団地かとも思われる。もしそうならそれに関連して面白い話を聞いているのでご披露してみます。
  団地完成の暁、地名の決定に住民一同協議の上、団地の位置が北鎌倉の真上の小高い岡にあることから「北鎌倉台」と衆議一決したという。ところがそれを聞いた古くから北鎌倉に住む住民一同が、この本の記事にあるエライさんからお叱りを受けたように「どこから来たか分からない新参者が、この由緒ある北鎌倉を名乗るとは不届き千番」と猛烈な反対運動を展開したため、新団地一同もやむなくそれに屈したという。今でもバス停の一つに「北鎌倉台」というのがあり、僅かに溜飲を下げているやに哀れを催される。

余談:この随筆を読んでいて、面白い符合に気づいた。
  というのは以前読んだ別の随筆家の作品中に全く同じような情景が描写されていたからである。二人とも同じ団地の同じ地域に住んでいて、同じバス停を利用していたようだ。両人揃って東京に勤務していたという。
  その状況というのは、帰途雨に降られて、大船駅前から乗ったバスの中から自宅へ「今白山神社の前を通過中だが、半僧坊下のバス停まで傘を持って来て貰えないんだだろうか」と奥さんに電話したという。


 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 7月 8日(金)23時28分22秒
  ムジカおさらぎのホームページ「演奏会のお知らせ」に
「第33回鎌倉生涯学習センターフェスティバル」の報告と
「第52回鎌倉合唱連盟定期演奏会」のお知らせを載せました。

ここをクリックしてトップページを開いて、「演奏会のお知らせ」を
ご覧ください。
 

更新しました。

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 6月29日(水)14時39分17秒
  歌のサロンを更新しました。
6月の歌のサロンは、ファゴット奏者をお招きしました。
あまりおなじみでない、ファゴットの演奏を動画でお楽しみください。
ピアノ演奏は高須亜紀子さんで、4月30日「ムジカおさらぎ定期演奏会」で
演奏された「春の歌」「ヴェネツィアのゴンドラのうた」を動画でおたのいみください
ココをクリックしてご覧になれます。
 

「麦秋(ばくしゅう)や大平原を遅々と兵」

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 6月25日(土)09時04分21秒
    標題は昭和19年5月半ばから6月末にかけて、京漢作戦と称する作戦に従事した時の一つの情景を最近詠んだ拙ない俳句です。麦秋とは歳時記によると、「麦が熟したこと、またその頃の季節をいう」となっております。

  中部中国に駐屯中のわが中隊にも上記作戦に参加せよとの命を受けて、5月半ば北部に移動。諸備品を受領後20数キロの重装備を担っての行軍が開始された。

  数日後黄河に差しかかったが、そこには非常に頑丈そうな鉄橋〈わが工兵隊の建造とか〉を、米軍機の来襲を避けるため半ば駆け足で渡るよう命ぜられた。見ると橋の半ば辺に高射機関銃隊が配備されていた。約1時間かけて渡ったが、下を見ると大黄河が濁流をとうとうと流していた。

  渡河2-3日後物凄い黄砂に見舞われ視界まさに数メートル。全身真っ黄色になってその日の行軍を終えたが、銃器の手入れに大変な手数を煩わされた。音に聞いた「黄塵万丈」という言葉が実感となって身に迫った。

  その後は平穏の中に行軍中ある夕刻、城壁に立て籠もる敵兵から突如猛烈な銃撃を受け、すわとばかりに展開して応戦。敵からのすさまじい攻撃に前進もはかどらない。夜を徹しての応戦にさすがの敵も浮足立ち、薄明に至り漸く制圧。敵城頭に日章旗が翻った。その朝路傍に負傷兵が衛生兵に手当てされる姿が多数見受けられた。

  以後何事もなく、掲題に記されたように、折から黄色く実った麦畑の中を明けても暮れても行軍することになった。単調な行軍を続ける中、はるか彼方にうっそうと繁った森が見えてきた。それが部落で数10軒の民家が群集し、広場には井戸がある。兵隊は競って喉を潤し、水筒に補給する。いわば砂漠の中のオアシスといったところである。ほぼ1カ月の行軍の最終局面にはるかに小高い山が見えたというくらい、中国大陸の広大無辺なる大地の姿を改めて認識することになった。

  さて表題の俳句の話になるが、あの句は私の勝手な想像で,よくいわれる鳥瞰図というか、はるかの上空からわが行軍を眺めた時、兵隊たちは懸命に歩いているかもしれないが、あまりに広い平野を歩いているため、「遅々」という表現がピタリと当てはまるのではないかと自賛している。

  以上当時を懐かしく振り返りながら記した次第であります。

余談:たわむれに詠んだ拙句

      自動銃対三八〈サンパチ〉銃や敗戦忌

  戦後偶々出会った中国正規兵を見てビックリ。皆米軍支給らしき迷彩服着用、自動小銃を携えているではないか。それにひきかえわが陸軍は依然として明治38年制式の単発銃。まともに撃ち合ったらひとたまりもないと、大いに怖けづいた。事実前線から帰って来た兵隊が「完全な負けいくさよ」と口々に自嘲的に叫んでいた。


 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 6月20日(月)00時07分18秒
  ムジカおさらぎのホームページ「演奏会のお知らせ」に
「第28回定期演奏会」の報告と「鎌倉生涯学習センターフェスティバル」の
お知らせを載せました。

ここをクリックして、トップページから「演奏会のお知らせ」を
ご覧ください。
 

中伊豆の渓谷

 投稿者:シブスト  投稿日:2016年 6月12日(日)23時27分23秒
  鎌倉から車で2時間半で行ける中伊豆に素晴らしい渓谷があります。新緑と渓流を撮りに行ってきました。秋には紅葉に彩られまた違った景色を楽しめます。  

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 6月 7日(火)10時49分56秒
編集済
  5月歌のサロンのページを更新しました。

ここをクリックしてご覧ください。

歌曲集「美しき水車小屋の娘」特集です。



 

初夏の信州

 投稿者:シブスト  投稿日:2016年 6月 5日(日)23時06分49秒
編集済
  霧ヶ峰高原とその近くにある真田氏の領地小県郡(上田市北方)で新緑、滝、渓流、レンゲツツジ、爽やかな高原風景などを撮影してきました。季節が例年より早く進んでいたが、梅雨前の良い時期で、レンゲツツジも早目に咲き出していました。
上の写真は、新緑の巣栗渓谷。中は不動滝、下の写真は霧ヶ峰のレンゲツツジと美しい雲です。
下記のURLをクリックしてブログもご覧下さい。

http://tnk125.blog.fc2.com/

 

わが幼年期を回想して

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 5月23日(月)13時27分31秒
編集済
    時代は昭和初期のこと。90年近くなる昔のこととて、おぼろな記憶をたどりながらつづって参りたいと存じます。

  当時の住居は横浜市南部にある、古刹弘明寺観音を間近かに控えた大橋町という一角にあった。

  市電の終点弘明寺から市の中心部に向け市電が走行していたが、その市電通りから3ブロック入ったところにわが家があった。前のブロックには銭湯があり白い煙が立ち上っていた。また弘明寺寄りの次のブロックには大きな市設市場があって、日用品の買い物に利用していた。また私ら兄弟姉妹が通学していた大岡小学校はすぐ近くに、当時からコンクリート3階建ての威容を誇っていた。わが家の前には幅広い砂利敷きの道路があり、仲間と共に野球に興じていた。当時の物資の輸送、引っ越しも含め、まだトラックの少ない時代で、専ら牛馬車に頼っていた。そのため道路にはそれらの糞が散乱していた。また牛馬のための飲水所が弘明寺終点の近くにあった。

  今なお鮮明に記憶しているが、わが家のすぐ前の家の息子が陸軍に入隊するとかで、父親が土建の親方の関係から、寄贈された幟旗が何十本も風にはためいてた光景が忘れられない。また数軒先に天理教の教場があり、信者が輪になって団扇太皷を鳴らしつつ「悪しきを払うて助け給え天理王の命(みこと)」と歌いながら踊っていたのも思い出す。

  当時京浜電鉄敷設中で、私らはよく弘明寺駅付近まで見物にいったものである。砂利など運搬する工作車もしきりに走っていた。

  また市電が祝日に花電車といって、骨組みだけ残した車体に、色とりどりの電球を満艦飾の如く飾り付けた電車を何両も連ねて市中を巡回し、子供らを楽しませていた。

  ある冬の深夜、上記の市場から出火、その炎の凄まじさに歯の根も合わなく身震いしたこともよく覚えている。

  また夏の夕方、大岡川の上空を覆わんばかりに「銀ちょうやんま」という色鮮やかの大型のトンボが襲来したり,潮の加減か「オボコ」といってボラの子が川の水をうずめんばかりに遡上してきて、手網やバケツなど持って大騒ぎしたこともあった。

  当時朝夕独特なラッパを吹きながら豆腐売り、振鈴を鳴らしながら納豆売り、ほかに玄米パン売りなど往来していた。

  最後に、夏休みに故郷の松江に帰省する親父のお伴に弟も一緒、東海道線を京都で山陰線に乗り換えたが、ほどなく余部(あまるべ)という日本一高い鉄橋に差しかかり、その高さに肝を冷やした。また山陰線にはトンネルがやたらに多く、当時の列車は蒸気機関車で煤煙をまき散らしながら走っていた。その煤煙が車内に入るのを防ぐため、トンネルの直前に窓閉めなければならず、窓の開け閉めに大忙しだった。

  また訪れた松江城の堂々としたそのたたずまいに感嘆大なるものがあり、先祖がこの城に出入りしていたことに思いをはせる時一寸誇らしい気分になった。

  以上長々と脈絡もなく思いつくまま申し述べた次第であります。










 

シェルブールの中のカタカナの意味

 投稿者:肖像君  投稿日:2016年 5月14日(土)13時09分27秒
  3ページ オーモナムールは「私の恋人」「私の愛する人」7ページ オージュテームはフランス語「愛しています。わかっておられる方が多いと思いますが、私はわからなかったので、パソコンで調べてみました。
 

シェルブールの雨傘

 投稿者:肖像君  投稿日:2016年 5月14日(土)12時56分11秒
  監督、ジャック・ドウミ、音楽 ミシェル・ル・グランのミュージカル映画に出てくる音楽です。この映画は、1964年、第17回カンヌ国際映画祭でグランプリをとった映画です。内容 第1部 アルジェリア戦争の最中、フランスの港町シェルブールにギイという20歳の自動車整備工と17歳のジュヌヴィーヴは、恋人同士であった。ギイは病身の伯母エリーズとジュヌヴィーヴはシェルブールで傘店を営んでいた母エリーズと暮らしていた。将来の事を語り合って幸せだったがギイに召集令状がきて、2年間兵役につく事になった。その日、二人は結ばれ、ギイは、幼なじみのマドレーヌに伯母の世話を頼み入営した。第2部莫大な納税に苦しむ伯母は、宝石を売って納税に充てようとしたが、なかなか売れない。そこへあらわれた、ローラン・カサールが、宝石を買い取ってくれた。ローランは、前からジュヌヴィーヴを見初めており,ギイを待ちきれなくなったジュヌヴィーヴはローランと結婚してしまう。第3部足を怪我して除隊になったギイはすべてを知って自暴自棄になり、酒におぼれる乱れた生活におちいる。やがて幼なじみのマドレーヌの励ましに立ち直りマドレーヌと結婚し、ガソリンスタンドも順調にいく。第4部 時は流れ、或る雪の夜、ガソリンスタンドに給油のため、1台の車が停まる。その運転席には、あのジュヌヴィーヴと子供が乗っていた。ジュヌヴィーヴのまたあいたいという誘いを断り、ギイはマドレーヌと幸せにくらした
 

おおシャンゼリゼ

 投稿者:肖像君  投稿日:2016年 5月14日(土)12時12分49秒
  フランスの
作詞者ピエール・ド・ラノエ作詞して、1969年、リリースされたシャンソン  日本では、ドナドナの作詞で知られている安井かずみ氏の訳詞が使われているそうです。
 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 5月 8日(日)22時11分56秒
編集済
  歌のサロンのページを更新しました。

4月歌のサロン
中村均一さんのサクソホーン演奏 脇谷敦子さんのピアノ演奏など
動画、アルバム、スライドショーでお楽しみください。

ここをクリックしてご覧ください。
 

素晴らしきかな!!ムジカの定演

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 5月 2日(月)17時02分8秒
  4月30日、私は初めて客席から聴きましたが、そのまことに見事な演奏に最上の讃辞を捧げます。

  私にはもとより音楽の素養などほとんど持ち合わせておりませず、細かいことなど全く解りませんが、全体的に聴衆に大きな感動を与えたものと思われます。


  昨年までは私もこの一員として歌っていたことに思いを致すとき、一寸誇らし気分さえ覚えました。

  ともかく満員の聴衆を迎え、大盛況理に終演したことお目出度い限りであります。
 

第28回定演

 投稿者:てるてるメール  投稿日:2016年 5月 1日(日)14時01分59秒
  汗と涙とがごちゃ混ぜになりながら感激の内に定演は終わりました。終えた後も涙がとめどもなく出て加齢の厳しさをもつくづく思い知らされた定演でもありました。
先生方本当にありがとうございました。そして団員の諸兄・運営の方々本当にありがとうございました。何人かの友人も大変感激褒めていただきました。大成功!!
 

草原の暮らしよさ〈モンゴル素描〉

 投稿者:YURA  投稿日:2016年 4月18日(月)14時18分45秒
    先日図書館から借りた、作家の司馬遼太郎の随筆集の中に一寸興味を惹かれる標題の一章を見出したので、以下に記します。なお著者は大阪外語の当時の蒙古語科出身で、50年来モンゴルとの関わり合いに終始したとのこと。

  モンゴルの草原も遊牧も素晴らしい。1973年夏、南ゴビの草原で起居したときはフエルトの家が実に快適で、モンゴル人が紀元前からこの暮らしを変えないはずだと思った。

  フエルトは私どもの暮らしの中では、スリッパの底とか紳士帽で見られるが、遊牧の暮らしの中では保温と防湿に使われる。つくりかたは簡単である。羊毛を集めて水をふくませて踏んでいけばいい。繊維が互いに濃密にからみあって、ついには布板状になる。草原には樹木がない。ただ川の岸にいくとヤナギなどが生えている。それを側壁材や天井材に使って鳥かごのような骨組みを作って、フエルトをかぶせるだけで家になる。

  「ゲルほどすばらしい家はありませんよ」と政府の要人が言った。彼は職業柄首都のウランバートルの鉄筋コンクリートのアパートに住んでいるが、ときに草原に戻りたくなるという。休暇をとって草原のゲルで起居していると、心が空の青さに染まって、空ほど大きくなるという。「この気分ばかりは他の民族にはわかりませんね」といった。

  半世紀前私にモンゴル語を教えてくれたウルトンバートル教授は、当時まだ二十代の青年だった。「日本の家は寒い」厳冬の国から来てしきりにこぼしていた。大阪の彼の家は官舎で戦前の建物としてはしっかりした西洋建築だったが、暖房への配慮がなかった。「ゲルならこんなことはない」と彼はこぼしていた。事実ゲルには紀元前からオンドルのような装置があって、床が暖かく零下何十度の冬でも過ごせる。

  それに草原には無数の燃料が落ちている。乾いて糸くずのようになってしまった牛糞がそれで、青い炎を出して燃え火力も強い。アルガリと呼ばれるこの燃料で煮炊きもし、暖房もする。ただし今の首都では石油や石炭を使う。「だから空気が悪くて」と前の人は言った。まったくぜいたくな話で、ウランバートルは世界の首都の中でいちばん空気がいいとされているのである。。

  草原の空気がいかにここちよいかがわかる。

付記:「蒙古」と称されるのは中国人がよく使う蔑称で、蒙とは知恵が足りない、文化が低いという意味だし、古はいうまでもなく、ふるぼけたことだと著者は指摘している。
 

更新しました

 投稿者:HP委員会  投稿日:2016年 4月14日(木)14時56分25秒
  ムジカおさらぎのホームページ「演奏会のお知らせ」に
「第28回定期演奏会」のお知らせを載せました。

ここをクリックして、トップページから「演奏会のお知らせ」を
ご覧ください。
 

/133